2013年度 日本近代文学会関西支部春季大会発表要旨

連続企画(第一回)

シンポジウム「文学研究における〈作家/作者〉とは何か」


〔趣旨〕
 かつて、〈作家/作者〉は、作品の唯一のよりどころであり、その作品は思想それ自体を表したものとみられてきた。だが、「作者の死」(R・バルト)の宣言以降、テクストから構成される概念へと位置を移したことで、以前の役割とは異なった相貌を見せるに至った。
 テクスト論の出現から一定の期間を経た後、文化研究、ポストコロニアル批評、ジェンダー研究など、様々な方法論が試されてきた。その都度、新たに立ち上がる〈作家/作者〉の存在があったといってよい。たとえば近年、「私小説」研究におけるパラダイムチェンジがさかんに行われていることも、そうした現象の一つと見ることができよう。肉筆原稿が呼び覚ます〈作家/作者〉も、テクスト生成の現場を考察する上では無視できない対象である。
 一方、文学が親しまれる場に目を向けても、たとえば、教室のなかで文学に触れるとき、あるいは、映画やドラマ、マンガなどのメディアで出会う〈作家/作者〉像、さらには、エンタテイメントやサブカルチャーにおいてキャラクター化されるイメージなど、検討すべき射程は広く、その対象は多様である。
〈作家/作者〉を取り巻く状況が渾沌とする現代において、その存在が投げかける問いは、より複雑な様相を呈している。今こそ、文学場における多元的な〈作家/作者〉へのアプローチを目指すべきではないだろうか。
 日本近代文学会関西支部は、四回の連続企画をもって〈作家/作者〉を再検討する。伝記・年譜研究などに代表される実証的な作家研究の手法から近年の文学理論をふまえた研究まで、それぞれの批評的角度と到達点を捉え直し、研究の新たな地平をきりひらくことを企図する。学会内外からの積極的な参加によって、〈作家/作者〉の現在の位置を測定してみたい。

 二〇一三年度春季大会の特集企画は、本連続企画の総論と問題提起を行う基調シンポジウムと位置づけ、従来の〈作家/作者〉を中心とした研究における問題点の抽出、方法論的な可能性の模索、〈作家/作者〉とその生きる 〝場〟(ローカリティ、文学場、メディア…)との関わりなどを討議する──。
登場人物の類型を通して作者は何を語るか
  ―私小説を起点に─

日比嘉高(名古屋大学)

 「作家/作者」を論じるといっても茫漠としており、何か焦点を作らなければ拡散してしまいそうだ。今回の私の発表では、私小説における主人公を補助線としてみよう。
 主人公の問題というのは、近代文学研究の世界では意外に考えられてこなかったように思う。「余計者」とか「トリックスター」などのように、個別的にあるいは理論的類型として捉えられたものはある。また、この問題に関心を払った先達としては伊藤整がおり、近年の成果では石原千秋『近代という教養』がある。目を転じれば現代のサブカルチャー批評の文脈では、大塚英志や東浩紀らの考察が牽引したキャラクター論(データベース消費)が注目を集め、近現代文学の研究者にも参照されてきた。だが問題の大きさに比して、成果は少ないと言わざるをえない。
 なぜ作家の問題を考えるときに主人公から論じるのか。文学テクストとは、作家がその認知的枠組みに拠って捉えた世界を、物語的諸装置を操作しながら記述=構成し、読者へと伝達する言語テクストである――と考えてみよう。作家はこのとき、主人公を自身と読者の間に置き、その主人公の知覚や思考、動作を描出することを通して、自らが認知した世界像を読者に伝えようとする。したがって、主人公はある種の認知的な「依り代」もしくは「代行者」となる。
 この代行者たる主人公は、原理的にはいかような人物としても書かれうるが、文学史的に眺めれば、いくらかの類型が浮かび上がる。では、類型をもって代行を行うとき何が起こるか。類型はいかなる役割を果たし、何を担っているのか。私小説を例に考えてみたい。
〈書く読者〉が見た夏目漱石
  ─文体・ジャンルの社会的機能と〈作者〉─

北川扶生子(鳥取大学)

 作品は、これまでに書かれた数多くの作品のなかに産み落とされ、古典となった過去の作品との関係において、理解され評価される。作者を、読者の読む行為ごとに立ち上がる像と見るならば、作者の名が様々なかたちで流通するメディア空間におけるこのような古典化への闘争のなかで、読者が立ち上げる作者像に、文体やジャンルという要素はいかに関わるのだろうか。
 文学作品の文体とジャンルは、作品の内部と外部という、文学研究における二項対立を乗り越える契機のひとつである。ある作品で選択された文体とジャンルは、先行作品への何らかの応答であるとともに、特定の社会階層や読者層および世界観とつながっており、しばしば読者の鑑賞法をも方向付けるからである。このようなつながりは、江戸期の学芸諸ジャンルが再編成され、言文一致体による小説が浸透するまでの時期にはとりわけ、幅広い読者に共有されていたが、その社会的な機能が十分に解明されてきたとは言い難い。
今回はこの問題を、一九世紀末から二〇世紀初めの世紀転換期における〈書く読者〉たちが、多様な文体を駆使する夏目漱石の初期作品をどのように読んだかという例から考えたい。この時期、文学作品の読者はしばしば、書くことを楽しみとし、作文の腕を互いに競い合った。作文は、旧来の文体やジャンルへの感性を、〈教養〉として読者が保持する場ともなった。文学とメディアと教育にまたがる作文という領域を経由することで、漱石の像がどのように変化したかを観察することから、文体やジャンルの社会的機能と〈作者〉の関わりを検討したい。
教室の中の〈作家/作者〉
  ―Takumi’s Adventures in Wonderland─

木村功(岡山大学)

 教育(国語教育)の世界における文学とその作品の位置づけは、あくまで教材としてである。小学校・中学校の義務教育段階では、専ら言語教育のための、高等学校では言語文化の教育のための教材である。また、国語教育が必ずしも文学教育と同義でないことは、了解されていると思う。今回の発表では、小学校・中学校段階での国語教育における文学、〈作家/作者〉をめぐる問題について報告したい。
 言語能力育成段階での文学作品は、「読む・書く・聞く・話す」能力の育成と言語事項をインプットしていくための教材であり、作品が内蔵しているイデオロギーについて顧みられることはない。例えば「ごんぎつね」の悲劇的なラストシーンは、作家新美南吉が意図していたであろうディスコミュニケーションを表現していたものではなく、ごんが自らの死と引き換えに、兵十への思いを伝えた感動的なコミュニケーションの物語として指導される。このように発達段階に応じた作品理解が優先される指導の背後には、共感やコミュニケーションの成立を前提とする教育の世界独自のイデオロギーが存在している。作品一つ一つの独自な世界観の理解を通じて、世界の多様性・多義性を学ぶことよりも、共感・友愛・恊働など、社会へ同化を促すための統合的価値を優先する教育界特有の価値観が、教員を通じて指導されるのである。小学校・中学校における文学教材をめぐる、実際の〈作家/作者〉の存在、そして作品の言説と教育の言説がせめぎあう様相を明らかにしてみたい。
〈作家/作者〉はなぜ神話化されるのか
  ─文芸解釈の多様性と相対性─

中村三春(北海道大学)

 《だれが話そうとかまわないではないか》(ベケット)という理念を基軸として「機能としての作者」を分析したフーコーの「作者とは何か?」(一九六九)は、一九九〇年に翻訳が出版されたが(清水徹・豊﨑光一訳、哲学書房)、日本文学研究においてそれに基づく展開は芳しくないようである。
 フーコーは、「機能としての作者は言説の世界を取りかこみ、限定し、分節する法的制度的なシステムに結びつく」とする。この「法的制度的なシステム」の一端を実証的に論じた鈴木登美『語られた自己 日本近代の私小説言説』(二〇〇〇、岩波書店)が話題となった。理論的には、それは一九八三年の絓秀実「『私小説』をこえて」(『メタクリティーク』、国文社)によって先取されている。「私」など所詮は虚構なのだ。しかし、これらの寄与はどれほど一般化しているだろうか。近代文学研究における作家/作者をめぐる理解のパラダイムは、一世紀前からこの方、ほとんど変わらないのではないか。
 この発表の要点は、〈作家神話〉と〈作者神話〉との交錯点において、文学研究の基盤をなす解釈(読解)の多様性と相対性を突き詰めることにある。この〈神話〉とは、(作家個人と作者概念に関する)崇拝的・妄信的な固定観念というほどの意味である。いわゆる文化研究のように社会史的に跡づけるのではなく、ネルソン・グッドマンの「解釈と同一性─作品は世界よりも長生きできるか」(一九八七、菅野盾樹訳、『記号主義』、二〇〇一、みすず書房)の言語哲学的な観点から見直してみる。志賀、太宰、賢治の外、幾人かの代表的近代作家に触れる。