2014年度 日本近代文学会関西支部秋季大会発表要旨

自由発表
有島武郎「一房の葡萄」の言説空間
   ―大正十一年という磁場―

小橋 玲治

 有島武郎「一房の葡萄」では女性教師が主要人物として登場する。山田昭夫が「まったく非の打ちどころがない」と述べるなど、この教師には従来高い評価がなされてきた。だが、そもそも「女性教師」という存在を肯定的に描くということ自体稀なことであった。結婚できない存在にすぎないという否定的なイメージが女性教師を描くに際し横行していた中で、有島が「一房の葡萄」で提示した女性教師表象は、それが外国人であるということを鑑みたとしても、特異なものである。先行研究では、女性教師の「愛の力」と「白い美しい手」は自明視されてきたが、そのように描かれること自体が当時にあっては新しいことだったのである。
 ほぼ同時期に女性教師への社会からの目を一変させる事件が現実に起こる。「一房の葡萄」は『赤い鳥』第五巻第二號(大正九年八月)に掲載され、書籍として刊行されたのはその二年後、大正十一年六月であった。翌月、小野さつきという一人の女性教師の死が世間を賑わせた。彼女は川で溺れた生徒らを助けようとして亡くなったのだが、その死はその後一種の「メディア・イベント」に発展した。と同時に、彼女の文字通りの決死の行動は、教師の鑑として称賛されたのである。本発表では、奇しくも大正十一年という同じ年に現れた二つの「理想的な」女性教師像を取り上げる。女性教師イメージが現実に転換していく中で、「一房の葡萄」をその動きに先行する作品として捉え、女性教師を語る当時の言説空間において本作が果たした役割について考察したい。
『半七捕物帳』の異同について

浅子 逸男

 大正六年から発表された「半七捕物帳」は、昭和十二年まで断続的に雑誌掲載された作品である。最初の七篇が発表されると単行本として刊行されたが、すぐに人気が出たわけではない。翌年「半七捕物帳後篇」六篇が連載されたが、後篇は単行本にはならなかった。
 第一話として発表された「お文の魂」は、『文垂倶楽部』(大正六年一月)に発表されたあと、単行本『半七捕物帳』(大正六年七月)では本文の異同はなし、新作社版(大正十二~十四年)でわずかな改変を経て、春陽堂版(昭和四年一月)でほぼ現行の本文になった。
 事件は元治元年(一八六四年) のことである。半七の年齢が、初出では「三十前後の痩ぎすの男」として登場したのに、新作社版では「三十二三の痩ぎすの男」となるが、春陽堂版では、「四十二三の痩ぎすの男」と十歳ほど年齢が変えられる。それにしたがうと、初
出および新作社版では半七は天保五年頃(一八三四年前後)の生まれであるが、春陽堂版では文政五年頃(一八二二年前後)の生まれということになる。それにともなって、語り手の私と出会う時期も、初出と新作社版では「私が半七に初めて逢つたのは、それから廿年の後で、恰も日露戦争が終りを告げた頃」(明治三十八年)であったのが、春陽堂版では「私が半七に初めて逢つたのは、それから十年の後で、恰も日清戦争が終りを告げた頃」(明治二十八年)と変更されている。私と出会ったときの半七の年齢を変えずに、出会った時期をさかのぽらせたわけである。
 半七の生年は新作社版までは天保年間で、昭和四年の春陽堂版で文政年間に直され、以降執筆された「半七捕物帳」ではそれにあわされることになった。
 さて、半七の人気が出たのは、新作社の五冊本が出た頃あたりで、そして六代目菊五郎が芝居にかけてからのことでもあった。
 今回の発表は、本文異同についてだが、菊五廊の芝居との関連にも言及していきたいと考えている。
連続企画 文学研究における〈作家/作者〉とは何か
    ―第四回―  小特集「教室の中の〈作家/作者〉」

「古典」との橋渡し役としての「近代以降の代表的な」「作家」
  ―平成20年版中学校学習指導要領を視点として―

宮薗 美佳

 「教室における(作家/作者)」を考察するにあたり、教科書作成におけるプレテキストでもあり、各校種、各学年の学習内容を定めている学習指導要領での(作家/作者)の捉え方を検討する必要がある。現行の国語科の学習指導要領で「作家」に言及している箇所は、「中学校学習指導要領 第2章 第1節 国語」の「第4章 指導計画の作成と内容の取扱い 3 取り上げる教材についての親点」の「(4)我が国の言語文化に親しむことができるよう, 近代以降の代表的な作家の作品を, いずれかの学年で取り上げること。」である。文部科学省『中学校学習指導要領解説 国語編』(平成20年9月 東洋館出版社)では、「各学年の〔伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項〕(1)アの指導では, 古典を教材として取り扱う。これにつながる, 近代以降の代表的な作家の作品に触れることで, 我が一国の言語文化について一層理解し, これを継承・発展させる態度を育成することをねらいとしている。」と解説される。ここには、近代以前のいわゆる「古典」との橋渡しの役目を、「作家」の名によって特別に担わせることで、「近代以降の代表的な」「作家」を、現代の言語とは分断された言語を用いて創作する、「古典」の「作者」に再配置する戦略がある。以上の観点から中学校国語教科書等を、学習指導要領の運用形態として検討することにより、現行学習指導要領下の国語教育における<作家/作者>像を考察する。
話者の判断の表れた言葉に着目して「高瀬舟」(森鴎外)を読む

寺田 守

 文学作品を通して読者が作家と出会う素朴な形として、同じ作家の複数の作品を続けて読むことが挙げられるだろう。いくつかの作品に繰り返し描かれる言葉、考え方、人物像、問題、舞台などの共通点に気づく時、私たちは作家の個性や好み、問題意識といったものを感じ取ることができる。例えば森鴎外の「高瀬舟」を読む私たちは、近世を舞台とした物語には馴染まない「オオトリテエ」という言葉に違和感を覚えるが、他の作品を続けて読んでみると、頻出するドイツ語や英語、漢語などの単語語から、描こうとする事象にしっくりと当てはまる適切な言葉を求めようとする鴎外の個性を感じることになる。
 教室でこのような素朴な形の作家との出会いは、カリキュラム上必ずしも準備されているとはいえない。一つの作品を読むことで作家と出会うという少し不自然な形をとることになる。例えば説話文学を読むときには「上人の感涙いたづらになりにけり」といった文の「いたづらに」といった評価語に着目することができる。
 近現代の文学は「うれしい」 ことを「うれしい」という言葉を用いずに描く表現が優れていると考えられ、評価語に着目する観点だけでは十分とはいえない。そこで会話分析の手法を用いて、特にモダリティや話者の判断を表す言葉に着目することで、語り手や登場人物の考え方に出会う読み方を探っていきたい。
村上春樹作品の教材化と、「とんがり焼の盛衰」をめぐつて

清水 良典

 筆者は筑摩書房の高等学校国語教科書編集委員を務めている。担当した教科書に、一冊本の「国語総合」があるのだが、そこに小説教材として村上春樹の短編「とんがり焼の盛衰」が収録されている。これを話題にすることで、本企画への問題提起の足がかりとしたい。
 村上春樹は教科書に多く採択されている作家である。「沈黙」「鏡」「青が消える」「七番目の男」「レキシントンの幽霊」などが採られ、中学校の教科書でも「バースデイ・ガール」が採択されている。これらの作品の共通点を挙げると、ミステリアスな物語であり、かつその原因やー異相が明かされていない、という点である。その結果、解釈が具体から抽象まで多様に開かれている。そこに教材としての扱いやすさと難しさがある。つまり自由に議論しあえる半面、正確な読みから導かれる妥当な解釈を、教師が提供できないのである。
 それに対して「とんがり焼の盛衰」は、集散的なファンタジーの背後に、作者の自己解説によれば、既成文士に対する皮内な観察が織り込まれている作品である。それに従うなら、芥川賞レースに巻き込まれたあげく嫌な思いをした村上が、今後は自分の好きなように書いていく決心をするに至るプロセスが読み取れる。しかし、そのような<作者>性と無縁に読むことも、もちろん可能である。物語自体のオープンな抽象性と、背景に作者の経歴につながる具体的モチーフの双面性を持つこの作品は、果たして教室でどう読まれるべきだろうか。文学と教材のあいだに横たわる諸問題を、それを入口に議論していきたい。