2022年度日本近代文学会関西支部春季大会 自由発表 発表要旨

第三次『新思潮』創刊号と出発期の豊島与志雄―同時代の文学潮流を視座に

河内 美帆

豊島与志雄は、第三次『新思潮』創刊号(一九一四年二月)に「湖水と彼等」を発表し、作家としての一歩を踏み出した。同作を皮切りとした創作がほどなく既成作家の目に留まり、豊島は新思潮派のなかでいち早く文壇に躍り出る。それを後押ししたのは、当時の自然主義文学の牙城である『早稲田文学』の中枢を担う中村星湖や吉江孤雁といった文学者であった。

早稲田派から高い評価を得たのは、豊島作品が当時の自然主義文学に通底する象徴主義・生命主義的な傾向を共有していること、それらの理念と密接な関係を持つ神や生命の問題、また自然描写を随所に織り込んでいることに由来すると考えられる。そして、それはひとり豊島のみではなく第三次『新思潮』創刊号に寄稿した他の同人たちに共通する傾向でもあった。新思潮派は、芥川龍之介や菊池寛を典型として、反自然主義的な性格を持つというのが通説とされている。だがそうした通説の内容は、いまや再検討されなければならないだろう。

本発表では、処女作「湖水と彼等」の他に、豊島の出世作となった「恩人」「犠牲」について考察する。出発期を代表するこれら三作には、流行思想としての象徴主義・生命主義を作品に取り入れながらそれらを反転させるという試みを見て取ることができる。第三次『新思潮』創刊号の性格と早稲田派との関係を視野に入れながら、こうした試みの中に潜む豊島の批評性を明らかにすることが、本発表の狙いである。

 

戦中派世代の殺人―坂口安吾「復員殺人事件」と高木彬光「樹のごときもの歩く」

西田 正慶

坂口安吾「復員殺人事件」(『座談』四九・八~五〇・三→『宝石』五七・八~一一)は、作者の死により未完に終った長篇ミステリ小説である。荒正人と江戸川乱歩の推挙により、高木彬光が解決篇を補い、「樹のごときもの歩く」(『宝石』五七・一二~五八・三)として完成させた。

奥野健男は、戦後社会の既成価値や人倫の壊乱についての描写を評価したが、それ以来、本作に関する論考に目立ったものはない。しかし、安吾が遺した作品の結末を高木が改変した点は注目に値する。昭和二二年、小田原に闇稼業で財を成した一家を舞台に作品は展開する。当初、安吾が登場人物の美津子(二二)の単独犯行として構想していた筋書きに、高木は兄・定夫(二五)の関与を加えた。高木は〈戦中派〉の人間による凶行という要素を作品の核に据えたのである。

補筆によって生じたこのズレは、世代論に関する安吾と高木の認識の差異を際立たせる。安吾の批判意識は、アプレ・ゲール青年=戦後派の特質を規定した『近代文学』派の言説に向けられていた。他方高木は、「戦後は終った」という認識の下で台頭した後続世代を、戦中派の立場から批判的に捉えていた。

本発表では、「復員殺人事件」および「樹のごときもの歩く」の合作という成立過程に照準することで、坂口安吾と高木彬光が、いかに自らを取り巻く世代論的言説と対峙したかについて考察する。作品の読解を通して、両者が「実感」にもとづき無意識に受け入れた世代論的なバイアスを相対化していることを明らかにする。

 

筒井康隆「東海道戦争」論―戦争体験の風化と当事者意識の欠落―

松山 哲士

筒井康隆「東海道戦争」(『SFマガジン』一九六五年七月)は、情報の行き違いが原因で、大阪と東京が戦争をする短編小説である。石川喬司(一九六六)は、本作の戦争が、D・J・ブーアスティンの提起する、マスコミが出来事を創造する「疑似イベント」に関連すると指摘した。また、内田友子(二〇〇七)は、「疑似イベント」が野次馬を巻き込み、「戦争のイメージ」と現実とがすり替わる様を論じた。その他に先行論は、戦争の喜劇性やドタバタ性に言及した。しかし、本作の主要な登場人物が、戦争体験のない若者であることに注目した論はない。

本発表は、本作の若者が、戦争映画に影響を受けて戦争に憧れている点に着目する。この作中の若者像は、当時の実際の若者が、架空の戦争映画から戦争に「カッコいい」印象を抱いていたという傾向が関係する。筒井はそのような実在の若者の動向を捉え、「カッコいい面」や「ドタバタ的な面」を無視して戦争像はつかめないと述べ、作中の若者像に反映させた。だが、本作品の主要なテーマは、安全な環境から他人事として戦争を見、戦争を「カッコいい」と感じていた若者が、戦争に関与した途端、悲惨な運命をたどるところにある。戦争は誰の意志も介入できず、自らの命や身近な人の命を脅かすことを、「おれ」を含めた主要人物全員の死をもって描出するのだ。

以上より、本作は、憧れた戦争に翻弄される若者の姿を描くことにより、戦後二〇年当時における戦争体験の風化と、戦争への当事者意識の欠落を風刺したと論じる。