パネル発表[パネル発表趣旨文]
講談本からひろがる大衆文化研究の視座――大正から戦後まで――
(パネリスト)奥野久美子・中村健・平尾漱太・松田忍
近年、近代文学と講談・落語・浪曲などの大衆演芸との関係が注目されている。落語の漱石への影響をはじめ、研究も蓄積されており、二〇二三年には特集が組まれた学会もある。しかし閲覧できる演芸関連資料は決して多くはなく、研究資料には乏しい。
大阪公立大学では二〇二一年に、講談本を中心とする数万点の演芸資料〈𠮷沢コレクション〉を受贈した。
本発表では、講談本や関連資料を用いて、大衆文学に直結する〈書かれた〉講談(書き講談)が広まった大正から、昭和戦後にかけての出版史、演劇、小説を取り上げる。
まず中村の報告は、大衆文化における新ジャンルの受容と洗練化を具体的に考察する。大衆文学は、書き講談を基盤に新講談→大衆文芸→大衆文学と変化・発展してきた。中でも書き講談と新講談の分化は重要な事例である。まず、書き講談・新講談の特性を〈編集〉という視点から考える。さらに、新ジャンルの受容と洗練化のパターン事例として、博文館の『講談雑誌』の編集をとりあげる。書き講談から大衆文学の流れの中で講談掲載雑誌に関する出来事としては、一九一三年に講談社『講談倶楽部』で起きた講談師事件と新講談の掲載、一九二二年の博文館『講談雑誌』に白井喬二・国枝史郎の登場という二つの事例が語られてきた。本発表では、この二つの事例の間にある博文館の『講談雑誌』の創刊から白井喬二・国枝史郎起用までの編集の変遷と書き講談と新講談の相克を対象に検討したい。
続く奥野は、講談〈編集〉の実状について、編集者・小林東次郎に焦点をあててその一端を明らかにする。小林は大正期の講談本叢書〈博文館長篇講談〉の編者の一人だが、他の編者と違い、速記者出身ではない。同叢書は〈書かれた〉というより〈編集された〉講談本である。𠮷沢コレクションの資料等から、小林が架空の講談師名を含む複数の筆名を使い、同じ演目を〈編集〉し直していた様子がわかる。編集の実状を具体的に示すことで、混沌とした講談出版史の一端を明らかにしたい。
次に平尾報告は、大正から昭和戦中期に商業演劇作家として活躍した真山青果の作品における、〈書かれた〉話芸との強い結びつきを明らかにする。彼の戯曲「初袷秋間祭」(一九三四年)は、侠客の安中草三が上州安中藩の圧政を正す物語であり、その原典は、三遊亭円朝作の人情噺「後開榛名梅香」であった。本報告前半では、落語速記本や講談本を通して確立された安中草三の物語を「否定的媒介」(花田清輝)して反「封建」色を強めた、青果の作品の独自性を検討する。また後半では、「初袷秋間祭」が敗戦後も再演された事実に注目し、青果と役者たちとの協働が、戦争を跨ぎつつ大衆的な物語のアクチュアリティを繰り返し更新した過程を浮かび上がらせる。
最後に松田報告は、「故郷もの」(相馬正一)と称される太宰治「帰去来」(一九四三年)と津軽疎開中に執筆した作品(一九四六年)に焦点をあて、戦中・戦後の講談本の受容を明らかにする。GHQの初期占領政策では封建的忠誠心や仇討に基づく義士伝、任侠物等は、民主化を阻害するものとして文化統制が行われた。その状況下で太宰は『義士銘々伝』の岡野金右衛門や『幡随院長兵衛』を参考に「未帰還の友に」(一九四六年)、「親友交歓」(一九四六年)を発表している。なぜ太宰は講談の英雄を題材にしたのか。戦中・戦後の検閲と講談本を軸に〈戦後文学のもつ批評性〉を問い直してみたい。
これらの報告を通じて、講談本を中心とする資料に裏打ちされた、大衆文化研究の新たな視座を提示する。豊かな大衆文化の基盤を持つ大阪に、講談資料として随一の質と量を誇るコレクションが加わり、大衆文化研究の可能性が広がることを、関西支部大会の場で示したい。
自由発表(個人)[自由発表趣旨文]
川端康成「花のワルツ」論――「少女」たちを分つ「結婚」への葛藤――
𠮷野 莉奈
川端康成文学には、「少女」時代を脱することと「結婚」への葛藤とを結びつけて描く作品が散見される。本発表では「花のワルツ」(『改造』昭一一・四―五、『文學界』昭一一・七、『文藝』昭一二・一)を論じ、その一端を提示したい。本作は川端の舞踏観が表れた作品、或いは「少女成長の物語」として論じられ、主に焦点が当てられたのは踊子の一人である星枝であった。「処女性」を有する星枝に川端の芸術観が表れており、もう一人の鈴子は彼女の「母性」ゆえに「日常」「平凡」を象徴しているとして捨て置かれてきた。しかし二人の舞踏は各々の美しさを持つことが本文中に示されている。人物形象(他者との接し方・生育環境・感情表現)の対照性も見過ごせない。本作は「少女」時代を象徴する「花のワルツ」を踊り終える場面で始まり、「二つの体で一つの舞踏的な体」を描いていた二人が道を分つ行程を描いている。したがって本作を論じるためには双方への着目が必要であり、それによって本作の主題の一つが「結婚」をめぐる思春期の〈娘〉の葛藤にあることが明らかとなる。
本発表では鈴子と星枝との差異と共通点とを明確にした上で、「少女」でも「母」でもない〈娘〉としての二人の在り方を論じたい。次に二人にかかわる男性達との関係を考察し、彼女等の変化のきっかけが、それぞれの「結婚」や「愛」をめぐる葛藤にあることを示す。他者依存的であった自身を乗り越え「意志」の力で芸術と愛とを獲得しようとする鈴子と、自己喪失への恐怖ゆえに芸術や性の目覚めへの抵抗を続けようとする星枝という、思春期の〈娘〉の対照的な在り方が描かれているのが本作といえる。
石原純の短歌における〈詩論〉――定型歌壇への反駁としての「新短歌概論」とその後――
野間 颯
著名な物理学者であり歌人でもあった石原純は、紅野謙介と島村輝、西尾成子(二〇〇九)によって多角的に検討された。その後は加藤夢三(二〇一九)によって物理学者としての側面がより検討されたものの、歌人としての研究は余白が多く残されている状況である。しかし石原純が提唱した、非定型かつ口語を使用する「新短歌」を再考することは、戦中期歌壇の動向を再評価することに繋がると考えられる。
石原純の「新短歌」は、ポール・ヴァレリーの純粋詩やフッサールの現象学からの影響も色濃くあり、定型歌壇から難解だと批判され、「わかる・わからぬ」論争を引き起こしていた。結果的には大日本歌人協会から新短歌歌人が締め出されることに繋がった。またその難解な印象は、新短歌歌人の増加の妨げとなっていた。そのような状況下で「新短歌概論」は一九三六年から一九三八年にかけて雑誌『立像』と『新短歌』上に連載された。これには定型歌壇への反駁と、新短歌理論の明確化が目されていたと考えられる。
本発表では石原純が「新短歌概論」で主張している内容と、石原純が日中戦争下に雑誌『短歌研究』で選歌した、読者からの投稿短歌における表現との対応関係を検討する。これにより、戦時下においては「新短歌」の理論確立を目指す姿勢がかえって〝時局にふさわしくないもの〟として定型歌壇を中心に受容されたこと、また石原純自身もそのことを自覚しながら自らの主張を変化させていたことを明らかにする。
特集 戦後文学をひらく
[企画主旨]
二〇二四年の春季大会では「戦後文学をひらく」と題する特集を組み、現代において戦後文学を繙く意味を考えたい。近年、戦後文学を批判的に見直す試みが起こっている。たとえば、「戦後文学のもつ批評性」の価値を認めつつも、戦後の文学史では「植民地出身の作家や女性作家、あるいは階級や貧困の問題、原爆という出来事性など、周縁化された事象は、「戦後文学」の中心からゆるやかに差異化され」ていると批判(紅野謙介・内藤千珠子・成田龍一編『〈戦後文学〉の現在形』)され、「「戦後」というバイアスを通して編成される記憶は、アメリカとの戦争、しかも日本の「終戦」物語に符号するものに限られる」(高榮蘭『「戦後」というイデオロギー』)とも批判される。しかし一方で、戦前・戦中を反復するかのような今日の様相を批判し、私たちのこれからを見据えるために、戦後文学の膨大な作品群が胚胎する可能性を現代にひらくことには意味があるはずだ。いまなお「戦後文学は生きている」(海老坂武)のである。
今日の研究者が戦後文学を語るとき、どのように歴史的記憶の再編が行われ、何が受容され、何が排除されるのか。研究主体のアイデンティティが問われることにもなろう。また、戦後文学を総括する際に、関西という視点が導入されることはあまりない。野間宏、椎名麟三、大岡昇平、庄野潤三、遠藤周作など、関西での生育や修学、就労が文学的個性の生成に影響した戦後文学の重要な書き手たちがいる。関西から見た戦後文学は、どのような景色を映し出すだろうか。
一口に戦後文学と言ってもその射程は広い。そこで本特集では、第一次・第二次戦後派、第三の新人に代表される、一九五○年代までに文壇に登場した世代の小説家・詩人・評論家・劇作家の文学に絞って考えたい。
[発表要旨]
堀田善衞『時間』における南京事件と国際社会の中の日中関係
山戸 麻紗子
堀田善衞『時間』(一九五三・十一~一九 五五・一) は、中国の知識人を視点人物に据え、その思索を日記体形式のもとに描出した 作品である。本作は中華人民共和国成立に至 るまでの近代中国思想史に南京事件を位置 付け、民衆と結びつく主人公の政治的判断力 を描き出した。これは、竹内好が中国民族運 動の「高いモラル」と呼んだ中国の思想性と 通底する。戦中における日本知識人の無思想 性と対決した本作は、後に竹内好が行なった 「近代の超克」の再検討を準備する意味を持 つ。
先行研究では、陳童君や丁世理などが、堀 田が参照した東京裁判の記録などと照合し、 本作執筆に際しての史料調査について検証 した。野村幸一郎は、「歴史」を認識する立 場に自己を置き、同時に目前の現実を変えよ うと企図する主人公の姿が、堀田の反美学的 な姿勢を反映していることを明らかにした。
しかし、本作の主人公が上海クーデター (一九二七年)の際の転向者にしてスパイで あること、南京事件への問題意識や「末期の 眼」批判が知識人論や近代性論に接続することに関しては、考察の余地が残されている。
本発表においては、中国と南京事件に関す る国内外の言説が『時間』に与えた影響につ いて、史料調査に立脚した考証を行なう。具 体的には、堀田が参照したと思われる『ニュ ーヨーク・タイムズ』等の新聞、スノーやテ ィンバリーらジャーナリストの言説と本作 との関わりに着目する。本作には英米のジャ ーナリズムがとらえた日中関係が反映されているのである。
外地文学を引揚げる――池田克己と日本未来派の戦後――
木田 隆文
近年の外地文学研究は、現地の文芸文化環境の解明に多くの成果をもたらしている。その一方で、検討対象を外地が消滅する一九四五年八月までに限定する傾向があり、戦時外地─戦後日本を連続的に検討する視点は希薄であった。
本発表は外地(特に戦時中国)で育まれた文芸文化が、戦後日本の詩壇に与えた影響を測定するものである。
その事例として取り上げるのは、一九四七年に池田克己が創刊した詩誌『花』・『日本未来派』である。池田は戦前の吉野で『豚』を創刊、関西を中心に全国の若手詩人を結集した。また戦時上海では、武田泰淳ら現地居留民作家を結集した『上海文学』を刊行、同時に南京にいた草野心平とともに刊行した詩誌『亜細亜』を拠点に大陸各地の日本人文学者や、和平文壇側の中国人文学者との交流を深めるなど、大陸日本語文壇において大きな役割を果たした。『花』・『日本未来派』には、その池田が戦前内地―戦中/内地―外地で糾合した文学者が再結集しており、特に戦時 下の大陸の文芸環境が色濃く反映している。
本発表ではまず、戦時中国から戦後日本における池田の活動と、そこで形成された人的・文化的ネットワークを素描する。そのうえで『花』・『日本未来派』にみられる中国表象に注目し、外地文学者たちがその経験を戦後にいかに引き継ぎ、あるいは忘却したのかを考えてみたい。なお余裕があれば、戦前期吉野の文化環境と戦後詩壇の連続性についても言及できればと思う。
梅崎春生と遠藤周作――「第一次戦後派」と「第三の新人」の交渉――
長濵 拓磨
梅崎春生と遠藤周作は、八歳の年齢差を超えて公私にわたり深い交流があった。そこには私的な意味で「ウマが合った」ばかりでなく文学者として共鳴する何かがあったことは確かであろう。そこで本発表では、両作家の共通点や所属する文学グループとの関係を探ると同時に、遠藤周作が作家として出発した昭和三十年代前後の文学活動に梅崎春生が与えた影響を検討していきたい。
便宜上前半と後半に分けて考える。遠藤周作は昭和三十年代前半、関西での戦争体験とフランスでの戦争の「痕跡」をもとに主として戦争を背景とする作品(「白い人」「黄色い人」)を描いた。梅崎春生の戦争小説(『桜島』『日の果て』など)に親近性を持った作品と言えよう。それが後半になると九州を舞台とした作品が増える。福岡(『海と毒薬』)、鹿児島(『火山』『ヘチマくん』)、長崎(『最後の殉教者』『沈黙』)である。福岡は梅崎の出身地であり、取材旅行の際には新聞社に勤める友人を紹介してもらっている。鹿児島も梅崎が海軍体験をした土地であり、ここでも知り合いに便宜をはかってもらっている。さらに、遠藤は『おバカさん』以降ユーモア小説を書き始めるが、梅崎の『ボロ家の春秋』の影響も考えられる。ちなみに梅崎春生は『ボロ家の春秋』によって「第三の新人」の「兄貴分」として認められ、遠藤周作も『おバカさん』によって「第三の新人」として認められた。
両作家の共通点は多い。