2025年度日本近代文学会関西支部春季大会 自由発表(発表要旨)・特集企画(趣旨文、講演・発表要旨)

自由発表(個人)

[要旨]

森鷗外「心中」論―近代的視点の枠組みに内在する〈不思議〉― 
アラジャクルオール・ブルジュ

森鷗外の「心中」(『中央公論』一九一一年八月一日)の怪談風の語りは同時代から現在に至るまで着目されてきたが、その特性の基調にある〈不思議〉を巡る同時代言説が「心中」においてどのように反映されているかについては述べられてこなかった。
明治初期以降、合理主義的・科学的視点の登場とともに前近代的〈不思議〉は無効な認識とされ迷信として排斥される一方で、天皇を中心とする国家神道がナショナルな信仰システムとして新たに構築されていった。しかし、一柳廣孝が指摘しているように、明治三〇年代半ばから〈怪異否定の枠組み〉が揺らぎはじめ、それまで近代科学的な理解の浸透により一蹴されてきたオカルトや地域の習俗が再び興隆することとなり、そのような〈不思議〉の曖昧さを担保する社会の受容は「心中」において、物語内に〈お金〉の語りと〈僕〉の再話の両立において表れている。本発表では明治時代の〈不思議〉・オカルトをめぐる研究を元に、〈不思議〉の排斥から再び受容へと展開していくその同時代言説の変容を考察する。
次に、本文分析を通して「心中」における〈不思議〉に着目する。〈僕〉の近代的、合理的視点により出来事を包摂するとともに、お金の怪談的話法を代筆する形を採るこの物語は、物語世界外の〈近代的〉な視点が、物語世界内の非合理的な身体感覚の領域をより前景化させ、〈近代〉の内で温存された〈前近代的〉側面を、物語の主体である女中たちの言外の感覚とともに浮かび上がらせている。
「心中」の〈前近代的〉な〈不思議〉と、近代的視点の枠組みに内在する〈不思議〉の両方を対象化することにより前近代と近代という枠組みがいかに相対化されているか読解を試みる。

長田幹彦と『神戸新聞』―『妖魔の笛』連載をめぐって―
浅井 航洋

新聞小説研究においては、東京や大阪の大手新聞がクローズアップされがちで、地方新聞に連載された長編小説についての研究は少なく、連載に至る経緯などの内情は不明な部分が多い。地方新聞が東京の文壇作家に小説を依頼することにおいて、どのような難しさがあったのか。本発表では『神戸新聞』に連載された長田幹彦『妖魔の笛』(大正一三・一・一~六・一三)に生じた新聞社と作家との軋轢から考えてみたい。
大正期『神戸新聞』の連載小説には旧硯友社系の作家や社内の記者による作品が多く、中央文壇の作家による執筆はほとんど見られない。新聞小説家として東京の諸新聞で活躍していた長田幹彦を起用することは、『神戸新聞』にとって新しい試みであり、それは『大阪毎日新聞』や『大阪朝日新聞』といった関西の大手新聞に対抗するための戦略でもあった。
このように期待された『妖魔の笛』だったが、休載をきっかけに幹彦と『神戸新聞』との間に軋轢が生じ、完結直前に連載が打ち切られてしまう。さらに『神戸新聞』は打ち切りに至った事情を暴露し、幹彦を非難する記事を四日にわたって掲載するという異例の対応をとる。
本発表では大正期『神戸新聞』の状況や連載小説の傾向を整理し、幹彦を起用したそのメディア戦略を考察するとともに、『妖魔の笛』が打ち切りに至る原因となった新聞社と作家との軋轢を連載状況や新聞読者の反応から跡づけていく。そうした作業を通じて、大正期『神戸新聞』と東京の作家との距離を明らかにしたい。

坂口安吾「餅のタタリ」論―〈農民文学論争〉との関わりから―
田中 聡一

坂口安吾「餅のタタリ」は、『講談俱楽部』(五四・一)に「田園諷刺小説」として発表された。上州の一農村を舞台とする本作は、正月の餅をめぐる些細な騒動が農民同士の軋轢を媒介して富農の没落へまで展開する様子を戯画的に描き出す。本作について先行論は、農村に材を採ったファルスとするか、農村の保守性への批判を読み取るかであった。ただし、かかる農村批判は本作以外の複数の安吾作品にも見える。それが本作でなされていることこそが意味づけられねばなるまい。
本作の評価に際しては、杉浦明平「農民文学は育つか」(『日本読書新聞』五三・一二・一四)で一応の決着を見た〈農民文学論争〉が補助線となる。大原祐治「「小市民の幸福」と公共性」(二〇一二・七)が指摘する通り、当時の安吾による農民文学批判は、〈農民文学論争〉の口火を切った武田泰淳「日本を知らない日本人」(『朝日新聞』五三・七・五)のそれと軌を一にしていた。大原は、安吾「中庸」(『群像』五三・六)にその農民文学批判が表出すると述べるが、五三年下半期を通じて展開された〈論争〉と安吾との関係性は考察の余地を残す。
以上の見立てのもと、本発表ではまず〈農民文学論争〉で展開された議論を整理する。特に、それが戦後農民文学のありようをめぐるものであったことを示し、同時にその問題点も析出する。その後、本作の農村批判を〈農民文学論争〉と関連づけて検討し、本作の評価を試みる。

特集 三島由紀夫のパフォーマンス

[企画趣旨]

二〇二五年、三島由紀夫の生誕一〇〇年を迎える。これを好機として、本年度の春季大会では「三島由紀夫のパフォーマンス」と題する特集を組み、あらためて三島由紀夫の文学について考えたい。
かつて秋山駿は、三島由紀夫は「死後に成長する作家だ」と述べたが、自決によって四五年の人生に幕を下ろした三島由紀夫の文学は、今日においてもなお読み継がれており、彼の文学を原作とする舞台や映画も絶えず生産されている。メディアも賑わい、近年も、ETV特集やNHKスペシャルなどで取り上げられ、映画「三島由紀夫VS東大全共闘」も話題になった。これらに先立って『三島由紀夫研究』も創刊され、解釈の欲望がますます喚起されているように見える。この理由として、三島の文学の魅力もさることながら、メディアへの露出も多かった作者自身の彩りと起伏にとんだ人生も無視できまい。これを作者による〈演技〉的なパフォーマンスとして見た場合、それはいったい誰のための、何のためのパフォーマンスだったのだろうか。それは成功したのだろうか。何に直面することで(何を排除することで)、この過剰にパフォーマティヴな主体が確立したのだろうか。
実際、三島由紀夫は〈演技〉に強い関心を持ち、能や歌舞伎、映画や舞台に深く関わり、戯曲を発表し、映像作品に出演したが、この〈劇化〉は自身の肉体にも及び、ボディビルで鍛えて、日の丸の鉢巻をして日本刀を構えたポートレイトを作成するにいたる。さらには自衛隊に体験入隊し、「楯の会」を結成し、戦後民主主義を欺瞞だと批判して天皇を擁護し、全共闘の学生と対峙し、やがて市ヶ谷駐屯地での演説と自決に行き着く。
磯田光一は「『有効性』の観念に還元できない人間の『精神』への、そして現実を超えた『秩序』への、逆説にみちた高らかな賛歌」(『殉教の美学』)を導き出し、三島が実践した戦後社会への反措定を評価した。一方で、金芝河は「三島由紀夫の死に反対する」で、個人の死を悼むとしても、朝鮮半島を支配していた日本を復古する風潮が三島の死を絡め取ることを批判した。政治的なイデオロギーやジェンダーや分断の視点を次々に呼び込む三島由紀夫のパフォーマンスへの評価は二極化しがちだが、体制・大勢に迎合する戦後社会を批判し、学生運動にも一定の理解を示し、必ずしも全面的に日本を肯定したのではなかった三島由紀夫の人(パフォーマンス)と文学について、容易に正否を決することはできない。だからこそ、現在の地点から、具体的な作品の繙読によって三島由紀夫のパフォーマンスを考えていく必要がある。
本特集では、まず近畿大学名誉教授の佐藤秀明氏に「没落華族の表象―『斜陽』と三島由紀夫―」と題するご講演をいただく。次いで、大阪大学の斎藤理生氏に「談話と偽者―昭和二〇年代の新聞記事と〈三島由紀夫〉―」と題するご発表をいただき、東京科学大学の木谷真紀子氏に「三島由紀夫『邯鄲』論―『近代能楽集』の誕生と雑誌「人間」―」と題するご発表をいただく。会場からの質疑を受けて、三島由紀夫の可能性を現代に問う活発な議論を、登壇者の諸氏を中心として行いたい。

[講演要旨]

没落華族の表象―『斜陽』と三島由紀夫―
佐藤 秀明

没落華族を描いて、圧倒的な熱量で世に迎えられた太宰治の『斜陽』は、しかし、高見順、豊島与志雄、志賀直哉、三島由紀夫からは華族が描けていないという批判を蒙ることになる。とりわけ三島由紀夫は、随筆「没落する華族たち」や短編小説「ラウドスピーカー」「蝶々」「頭文字」「宝石売買」ほかで、華族の若者をリアルに描き、それを示すことで、太宰を批判したのである。
しかし『斜陽』は、本当に華族が描けていない小説だったのだろうか。作品の細部を拾い集めて再構築すると、華族家の骨格はかなり書けていると思うのだ。問題になったかず子の敬語には、確かにおかしなところがある。その一つひとつを点検してみると、敬語の誤用や過剰使用から、高慢な面を後退させたかず子の庶民的性が前面に出て来る。
その上で『斜陽』を読み解くと、作品では明示されないかず子の企みが見えてくる。そしてそれが、太宰の『斜陽』における戦略だったことが窺えるのである。高らかに、また執拗に『斜陽』批判をした新人・三島の太宰へのパフォーマンスは、とんだ空振りを喫していたのである。
しかし三島は、没落華族から二十年後のエンターテインメント小説『夜会服』で、没落せずに生き延びた元華族を描き、『斜陽』に一矢を報いることになる。
講演では、『斜陽』の多くの読者が支持した「没落」が、『夜会服』によって甘い認識でしかなかったことを明らかにし、特権階級の生態にまで話を及ぼしたいと考えている。

[発表要旨]

談話と偽者―昭和二〇年代の新聞記事と〈三島由紀夫〉―
斎藤 理生

敗戦から間もない時期に発行された地方新聞や全国紙の地方版をめくっていると、比較的早い段階から、三島由紀夫の作品や記事に遭遇することがある。ごく短い小説、随筆、アンケート、談話などである。それらの中には、稀にではあるが、単行本に収められず、決定版全集にも収録されず、掲載後に忘れられ、近年まで知られていなかったものが含まれる。今回の発表では、そのような調査の過程で発掘したものを中心に、昭和二〇年代(特に二二年から二七年ごろまで)の新聞記事に表出された〈三島由紀夫〉について考えたい。その際、特に談話(インタビュー)に着目する。もちろん、談話において三島が語ったとされている言葉は、新聞社による意識的な、あるいは無意識的な編集や改変を経ている。その点では、書かれた作品と同じ水準で受けとるべきではない。しかし、作家が常に受動的な立場にあったわけでもあるまい。談話は、メディアと作家それぞれの意図や期待が交錯し、イメージがせめぎ合う場として捉えられないだろうか。同時に、昭和二三年の新興地方紙に掲載された、三島の偽者が現れたという記事も取りあげる。偽者それ自体は、作家当人にも周囲にも、はた迷惑な存在に違いない。しかし後世の研究者は、その姿から、同時代の作家像を知る手がかりを得られるかもしれない。三島をめぐる考察を通じて、他の文学者にも関係する問題を提起できればと考えている。

三島由紀夫『邯鄲』論―『近代能楽集』の誕生と雑誌「人間」―
木谷 真紀子

三島由紀夫『邯鄲』は、昭和二五年一〇月に「人間」に発表された。雑誌「人間」は、川端康成が中心となり、戦後間もない昭和二〇年一〇月に創刊された。三島は川端の推挽で昭和二一年六月に『煙草』を発表して以降、作品を掲載する機会を多く与えられた。実は三島の最初の戯曲『火宅』も、同性愛の小説『春子』も、三島戯曲の中でも最も評価の高い作品となる『近代能楽集』の第一作となる『邯鄲』も、この「人間」が発表媒体である。
『邯鄲』は、その名が示すように謡曲『邯鄲』に拠っており、謡曲『邯鄲』は唐の小説『枕中記』に材を得ている。三島作『邯鄲』は、主人公である一八歳の次郎が、かつて次郎の家に仕えていた菊を訪ねるところに始まる。次郎の目的は、町で出逢ったサンドイッチマンから聞いた、菊の持つ不思議な枕で休むことにあった。しかし、夢の中で、夢から覚めた次郎は、これまでの枕の使用者とは異なる変化をする。
本発表では、「人間」という雑誌と三島の関係に着目しつつ、『邯鄲』の主人公の次郎の人物像を分析し、三島が「青年」をどのように描いたか、また「人間」に「僕の人生はもう終つちやつたんだ」とする次郎を描いた意味を考察する。そのうえで三島由紀夫の初期のメディア戦略を通し、今回の企画のテーマである「三島由紀夫のパフォーマンス」を一側面から明らかにすることを目的とする。