■シンポジウム
村上春樹と小説の現在─記憶・拠点・レスポンシビリティ
■企画の趣旨
国民国家とともに成立した「小説」というジャンルは、20世紀的状況からポスト近代へと到る状況のなかで、その在りようを変化させてきた。ジャンルの固有性やメディアにおける配置、そして小説の可能性と不可能性は、現在どのように捉えることができるだろうか。本シンポジウムの目的は、村上春樹を対象に「小説の現在」を探ることにある。今日、村上春樹ほど「小説家」であること、「小説」を書くということの意味に意識的な作家はいない。最近の例でいえば、エルサレム賞の授賞式でのスピーチは、「小説家」としての立場から自らの政治性を表明したものであったし、発売後瞬く間にミリオンセラーとなった『1Q84』では「小説家」が登場人物となっており、小説を「書く」行為そのものの持つ意味が扱われているといえる。
具体的な問題の設定については個々のパネリストにゆだねることとしたいが、現在、村上春樹について考えるための切り口として、たとえば次のものが想定できるだろう。
ひとつは「記憶」をめぐる問題である。村上春樹は、よく知られるように1995年あたりから状況に対するデタッチメント(かかわりのなさ)からコミットメント(かかわり)へと方向性を変え、社会的事象を積極的に作品に採り入れるようになった。転回の具体的契機となった出来事の一つに、阪神・淡路大震災がある。関西出身の村上春樹にとって、「記憶」が集積した空間の崩壊は何をもたらしたのか。『ねじまき鳥クロニクル』以降の作品では、「記憶」と「歴史」の接合が探られている。小説は、それらとどのように重なりまたずれているのか。このような「記憶」と時間性に関わる問題系において、小説の在りようを探ってみることができるのではないだろうか。
また空間的な問題として、村上春樹の「拠点」について問うてみることもできるだろう。村上春樹は神戸出身であり、その土地の風景は初期の作品などに描き込まれているが、テクストはその土地のローカルな色を表そうとする指向はもっていない。脱色化された風景のもつ意味や効果は小説表現の問題としてどのように考えうるだろうか。より今日的な問題としては、日本出身の作家のなかで最も越境的に活躍している村上春樹が、グローバリズムに対してどのようなポジションをとっているのかという問いも浮かぶ。語られる「記憶」は、どこを「拠点」として繋ぎ合わされているのか。
そしてまた、村上春樹が応答責任を果たそうとしている対象はどのようにテクストに書き込まれているのかという問いについて考えてみることもできるのではないか。世界中に翻訳されている村上春樹の作品の読者は、「誰」なのか。それらの問いを、多様で複雑な情報の氾濫とつねに発生し続ける力学をどのように捉え、「小説」そのものの配置と政治性をどのように考えるかという問いへと広げることもできるはずだ。
以上のような視点をパネリストからの問題提起と考え合わせることで、一種の社会現象ともいいうるほどの広がりを持つと同時に「小説家」であることに特化された村上春樹の仕事について、会場全体で討議・再検討する。本シンポジウムを「小説の現在」を見つめる機会としたい。現在における文学の、あるいは文学研究の果たすべき役割が、その先に見えてくるのではないだろうか。
企画委員:飯田祐子、黒田大河、日高佳紀