ポストモダン・ローカリティ――村上春樹の「開かれた焦点」とその主題化
高木 彬(京都工芸繊維大学大学院)
世界的な「村上春樹現象」の根拠が文化的「無臭性」(四方田犬彦)にあるにせよ「固有性」(藤井省三)にあるにせよ、それを作者や小説における空間的問題として内側から捉え直してみるならば、ローカリティの解像度を「日本」から「神戸」へと上げることができる。ここで注意すべきは、村上春樹の故郷の「神戸」が、『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』の四部作において「僕」の故郷の「街」として虚構化された際に、固有の地名を失うことである。多くの論者は「街」を「神戸」と一義的に等号で結んでいるが、しかし「街」は、あくまで記憶の焦点として空間的に限定されながらも、同時に、その限定性を失った無名の空間でもあるのではないか。四部作で繰り返される「東京」からの「記憶探し」の道行きは、核心部分が空虚へと挿げ替えられることで戯画化され、焦点が逆説的に「どこでもない空間」として開かれている。
村上春樹は、阪神・淡路大震災の1995年以降、状況に対するデタッチメントからコミットメントへと創作スタイルが変化した、と言及し、後者を、個人の井戸を掘り進めた先の地下水脈的な越境、と喩えている。しかしここまでの議論に照らせば、こうした繋がりの形は、実は既に80年代の四部作が物語の空間構造として有していたことが分かる。90年代の『ねじまき鳥クロニクル』以降繰り返されているのはむしろ、その「開かれた焦点」の構造自体の自己言及的な主題化ではないか。歴史群のサンプリングは、そのために要請されたものである。本発表では、この断層を「焦点空間におけるコミットメント形式の変容」として捉え、作者による震災以降の「神戸」の主題化と考え合せながら、ポストモダン以降の現代における小説表現とローカリティについて新たな視座を提示したい。
村上春樹は世界文学か日本文学か―近代化過程と文学の表現をめぐって
中川 成美(立命館大学)
村上春樹の出現は、文学的事象としてだけではなく、社会的・文化的な現象となって現代文学の新たな導線を描いた。いわゆる「ハルキ現象」は80年代のサブ・カルチャーの諸場面と連動して、バブル経済と呼ばれた未曾有の大量消費社会に穿たれた空虚な喪失感を代弁する、もっとも代表的な言説となった。現在に至るまで彼の作品はベストセラーを記録し、世界中ですぐに翻訳されて大量の読者を獲得し続けている。彼を日本文学作家とするにはその流布はあまりに広範、かつ大量で世界文学作家という呼称を与えようとする批評家も多い。
しかし、日本の外で彼の作品がどのように読まれてきているかということには、いくぶんの留保と注意を払わなくてはならない。第一に翻訳の問題がある。日本語からの直接訳のほかに英語などからの重訳について、村上は「重訳ってわりに好き」(『翻訳夜話』)と語り、彼自身の指示で重訳がされた例もある。つまり、日本語テクストから英語テクスト、そしてその他の言語テクストに至るプロセスで、原典とすべきテクストを決定するのは難しい状況がある。第二にポストモダンの代表的な文学として受容される彼の作品が、各地域の近代化過程の問題と絡みあって、近代が紡いだ歴史の記憶を再現して、新たな後近代の塑型を提示する役割を担ってきたことについて、どのように考えるべきか。
決して春樹の良き読者と言えない日本人・文学・研究者である私がこのことを語るということ自体が既にある種の矛盾を抱えもっているのだが、錯綜するテクストを生産し続ける春樹文学を相対化し、再布置をはかることによって見えてくるものは何かを考えたい。
「正しさ」の村上春樹論的転回
石原 千秋(早稲田大学)
村上春樹文学でときおり見られる「正しさ」という表現は不思議な使われ方をしていた。それはたとえば「その日、僕は彼女を抱いた。それが正しかったことなのか、僕にはわからなかった」という具合に書き込まれているのである。これは恋愛を書く文学としては非常に特異な表現である。ふつうなら、恋愛で問題になるのは愛情の度合いであって、「正しさ」ではないからである。しかし、こうした例を典型として、村上春樹文学はある種の「正しさ」に向けて書かれていると考えられる。
そこで考えられることは、村上春樹文学が実は初期から恋愛を個人の問題ではなく、社会の問題として捉えていたということである。その「正しさ」の基準をどこに求めているのかを明らかにすることが、村上春樹文学を解く鍵の一つである。また、村上春樹文学は恋愛と社会的な事象とを絡めて書くことが多く、「正しさ」の基準を社会のどこかに求めていることはまちがいない。繰り返すが、その「正しさ」の基準について考えてみたい。
ピンポンと弑逆。──小説について考えるときに読者が考えること
千野 帽子(文筆業)
村上春樹の『1973年のピンボール』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『海辺のカフカ』『1Q84』(BOOK 1と2。要旨執筆時には3は未刊)の四篇は、出会わないふたりの語り手もしくは視点人物のそれぞれの行動を交互に報告するふたつの筋から成り立っています。柄の大きな長篇小説である後三者を、他の作家の同形式の例(レーモン・クノー『青い花』、アラン・ロブ=グリエ『弑逆者』を中心に、ジョルジュ・ペレック『Wあるいは子供の頃の思い出』、フォークナー『野生の棕櫚』、宮部みゆき『レベル7』など)と併置することによって、「物語のピンポン」形式について考えたいと考えています。
しかしこのように思い立った瞬間に、私たちは「文学について考えるとは、そもそもどういうことなのか」という問いに直面してしまいます。もし私が卒業論文準備中の学生なら、指導教員は私に「なぜこれらの作品をいっしょに読むの?」と尋ねることでしょう。
この話は個々の作家について考えるものではなく、「小説について考えるときに読者が考えること」について考えようという、ややメタなものです。話は学術的なものとならず、「学問」の外から「学問」の外延を撫でさすることになりますが、専門の日本文学研究者ならぬ一読者がこの場にお招きいただいたことの、それが意味だと考えています。どうぞご理解ください。