2018年日本近代文学会関西支部春季大会 発表要旨

■シンポジウム「更新される〈明治〉」
〔趣旨〕

 二〇一八年は、明治維新(あるいは戊辰戦争)から数えて一五〇周年に当たる。政府は、「明治以降の歩みを次世代に遺すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要なこと」――として、官民を挙げた顕彰活動につとめている。そもそも歴史とは、「現在と過去との絶え間ない対話である」(E・H・カー)とすれば、〈明治〉という「過去」は、「現在」の要請において、様々に解釈され、意味づけられてきたといえる。その時々において、日本近代文学はどんな役割を果たしたのだろうか。
 たとえば、同じく生誕一五〇周年を迎える夏目漱石が、「維新後四五十年」を振り返って、「現代日本の開化は皮相上滑りの開化である」と喝破したのは一九一一(明治四四)年のことである。その数年後、明治維新から五〇周年にあたる一九一八年には、芥川龍之介の「開化期もの」と呼ばれる作品群が登場する。そして、その五〇年後には、政府による大々的な「明治百年記念式典」(一九六八年)が催され、その直前には、『産経新聞』紙上で、司馬遼太郎『坂の上の雲』の連載が始まっていた。『思想の科学』や『中央公論』誌上を賑わせていた明治維新をめぐる活発な議論も忘れることはできない。私たちの歴史地層には、こうした〈明治〉にまつわる共同記憶が埋め込まれているのだろうか。
 むろん〈明治〉は、五〇年周期以外にも必要に応じて都合よく召喚された。満州事変以後、高唱されるようになった「昭和維新」(第二維新)は、いうまでもなく明治維新をトレースしたものだし、林房雄、島崎藤村、保田與重郎などの〈明治〉へのコミットも、なにがしかの因果関係をもつだろう。戦後、明治百年記念祭の委員を務めた林房雄は、三島由紀夫との対談(『対話・日本人論』一九六六)のなかで、「明治を体験的には知らないのだから郷愁のもちようがない」と述べつつも、「民族の核心的性格」による「巨大なエネルギー」の「爆発」こそが明治維新だったと力説している。こうした〈明治〉への熱量は、『奔馬』(一九六七~一九六八)で昭和の神風連を描いた三島由紀夫にも共有されていたに違いない。
 そして、二〇一八年・現在はどうなのか。その時々の歴史状況をふまえつつ、〈明治〉を主題化した作家やテクストを比較対照することで、それぞれの時代の文化的無意識や文学の果たした役割をあぶりだしてみたい。
〔発表要旨〕
○芥川龍之介の江戸と明治――奠都五十年言説の中で――

奥野久美子
 明治五十年にあたる一九一七(大正六)年をどのように迎えるかについては、明治が大正にあらたまる前から議論され、奉祝事業案が出されていた。迎えた一九一七年、春に上野公園では奠都五十年奉祝博覧会が開かれ、奠都の道行をたどる東海道のジオラマが注目を集め、駅伝の嚆矢とされる「奠都記念マラソン・リレー」も開催された。秋には三越で明治風俗展覧会も催された。また二度目の東幸が行われた一八六九年から五十年にあたる一九一九(大正八)年五月には、七日に皇太子(昭和天皇)成年式、九日に奠都五十年祭と、盛大な祝賀行事が続いた。
 このような、明治を回顧し新時代を展望する時代風潮の中、芥川龍之介は「或日の大石内蔵之助」「戯作三昧」(大正六年)、「世之介の話」「枯野抄」(大正七年)などの江戸ものと同時に、「開化の殺人」(大正七年)、「開化の良人」(大正八年)という開化期ものを発表した。処女作「老年」(大正三年)で、江戸と近代のはざまに佇む老人を描いた芥川は、江戸と明治という二つの時代が「美しい調和を示していた」(「開化の良人」)開化期に強い関心を寄せ続けた。本発表では、その生育環境にも影響された芥川の中の〈江戸〉について考えつつ、この時期の芥川作品、特に開化期ものを、奠都五十年言説の中であらためて読み直すことを試みたい。
○〈明治維新百年祭〉が呼び起こしたもの――『大東亜戦争肯定論』と戦後価値の揺らぎ――
内藤由直
 一九六〇年代、竹内好や桑原武夫の呼びかけによって惹起した〈明治維新百年祭〉を巡るカンパニアは、明治期を中心とした近代日本の歩みを再検討し、新たに評価し直そうとする機運を高めた。『思想の科学』や『朝日新聞』、『歴史学研究』などの雑誌・新聞が論争の場を提供し、文学者や歴史学者が入り乱れての議論が展開されたのである。
 なかでも、『中央公論』連載後に刊行された林房雄『大東亜戦争肯定論』(番町書房 一九六四~五年)は、近代日本の歴史を「東亜百年戦争」という独創的な認識枠組みの中で肯定的に評価したことで、物議を醸したものである。『大東亜戦争肯定論』の眼目は、一九四五年の敗戦に至る近代日本の一連の戦争過程を、植民地解放闘争として位置づけることにあった。これに対して、近代日本の戦争を帝国主義時代の侵略戦争と見る議論や、GHQが敷衍した歴史観に依拠して軍国主義暴走の経緯を批判的に捉える反論などが現れ、喧々囂々たる様相を呈したのである。
 当時の議論を読み返すと、竹内たちの企図した百家争鳴が、確かに実現したように思われる。それでは、論争の果てに、近代日本のどのような問題が解決され、何が課題として残されたのだろうか。また、カンパニアの底意には、そもそもいかなる文学的閉塞の打開が意図されていたのであろうか。
 本発表では、『大東亜戦争肯定論』を中心に据えて、近代日本の歴史を更新しようとした一九六〇年代の議論を振り返りながら、〈明治維新百年祭〉カンパニアの目的と到達点を見極めていく。その上で、論争の係争点に垣間見える戦後文学思想の揺らぎを剔抉したい。
○三島由紀夫がまなざす明治――政治とエロスのあわい――
有元伸子
 「文化概念としての天皇」を言挙げした一九六〇年代後半の三島由紀夫は、義を開顕するために死を恐れず行動した者たちの系譜として、明治維新前後の大塩平八郎、吉田松陰、西郷隆盛らを召喚する(「革命哲学としての陽明学」)。一方で三島は、自身の思想的姿勢として、バタイユを援用しつつ、「無理にでも絶対者を復活」させ、「死に至るまで快楽を追求して」「エロティシズムを完成」するのだとも述べる(古林尚との対談「三島由紀夫最後の言葉」)。
 それは天皇に対する一方的な恋闕の情であるとともに、昭和神風連を目指した「奔馬」の主人公・飯沼勲がテロ決行による瀕死の仲間との別れを甘美に夢想したような、男性同士のホモエロティシズムを濃密にまとったものでもあるだろう。三島は、西郷が親友の勤皇僧・月照とともに薩摩の海に入水したものの一人生き残り「太虚」を垣間見た神秘体験こそが、西南の役の「無償の行動」を促す原動力となったとも解説する。
 ところで三島は、一九六八年に、明治百年記念芸術祭のために文化庁から委嘱されてバレエ台本「ミランダ」を書く。自身の代表的戯曲「鹿鳴館」と同じ明治一九年秋の東京を舞台に、イタリアのチャリネ大曲馬団の来日公演に材をとり、「欧化主義と日本主義の対立融合といふ明治維新の課題」を「恋愛心理の表現」により描いた作品である(日生劇場プログラム)。
 天皇への恋闕、男同士のホモエロティシズムと男女の恋愛劇。本発表では、明治という時代に向けられた三島のまなざしを、政治とエロスのあわいから考えてみたい。
○明治維新五〇年、六〇年の記憶と顕彰――一九一七年、一九二八年の政治文化――
高木博志
 今年は、明治維新一五〇周年である。もっとも明治維新の記憶や語られ方は、明治、昭和とのちの時代の変化にともなって、また語り手の立場によっても多様である。
 一八六七年(慶応三)一二月九日の王政復古では、「神武創業」が理念にかかげられた。古代の天皇親政が理想である。しかし「明治維新」は、薩長など勝ち組のものであって、会津・仙台など負け組の「賊軍」にとっては、屈辱の記念碑であった。明治初年に会津藩戦死者の死体は放置され、一八八九年(明治二二)憲法発布の「大赦」で戊辰戦争「賊軍」の罪は許された。薩長から東北諸藩まで、はじめて天皇のもとで「臣民」として平等とみなされた。
 こうして薩長の新政府と「賊軍」とされた幕府や会津・仙台などの東国との明治維新観の分裂から、一八八九年の大日本帝国憲法発布にともない「臣民」となり、日清・日露戦争を契機とする天皇制に包摂される国民が成立した。
 戊辰戦争五〇年の一九一七年(大正六)ころには戊辰戦争を実際に体験した世代は亡くなり、全国の地方城下町においても幕藩制以来の旧藩主に代わって、皇室の権威が地域社会を覆ってゆく。戦争体験者の喪失と、そのリアリティの希薄化、歴史化の状況は、戦後七〇年を過ぎ、アジア・太平洋戦争の経験者が少なくなった現代と似ている。
 一九二八年(昭和三)は、戊辰戦争から数えて満六〇年で、戊辰の還暦であった。そして昭和大礼と重なった。前年の金融恐慌、張作霖の爆殺事件と、泥沼の戦争が始まる時代閉塞のなかで、かつての明治維新や「明治大帝」といった、「近代化」の起点が顕彰された。