〔自由発表要旨〕
○宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」論――雑誌『児童文学』が与えた視座――
服部峰大
昭和七年三月、文教書院から発刊された雑誌『児童文学 第二冊』に掲載された宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」は、「ありうべかりし賢治の自伝」と呼ばれ、「雨ニモマケズ」に代表される賢治の思想を重ねて読まれて来た。「グスコーブドリの伝記」には、その前稿として「グスコンブドリの伝記」があり、この改稿により、主人公が自己中心的偉人から、他者の為の偉人に変更されたとの指摘が既になされている。
本発表では、ブドリの「笑い」を中心に、掲載誌である『児童文学』の編集方針が、本作の改稿にいかなる影響を与えたのかについて考察したい。
清水正は、ブドリと百姓の断絶を指摘し、ブドリの自己認識を「〈理想と使命〉に燃える〈立派な人間〉」とし、その自己認識は「作者によっても保障されている」としている。しかし、作者はブドリの自己認識を肯定していたのだろうか。
確かにブドリと百姓の間に断絶は存在している。だが、ブドリは本当に、そのことに最後まで無自覚だったのか。改稿後、書き加えられた「楽しい五年間」、ブドリが死を決意する要因の一つとなる「笑い」に注目し、改稿前後を再検討することで、グスコーブドリを批判的に捉える視点の存在を明らかにする。
では、なぜこのような改稿がなされたのか。掲載誌である雑誌『児童文学』は、「純粋童話、詩的童話」を合言葉に、子供向けの童話を批判していた。努力や修養を主題に据えた伝記物に注目が集まる中、「グスコーブドリの伝記」には、それら既存の児童文学を批判する読みが内在していたのである。
○野上弥生子『台湾』の視座――日本人作家の視察と理蕃政策―
渡邊ルリ
野上弥生子は一九三五年十月、始政四十年記念博覧会開催中の台湾を総督府政務長官夫人平塚茂子の招きで訪れ、紀行文『台湾』(『改造』一九三六・四~五/『朝鮮・台湾・海南諸港』一九四二・八)を発表した。総督府長官邸到着の翌朝、弥生子が原住民族を知るため全島一周を願い出たことにより、総督府は新たなスケジュールを用意し、巴達岡・花蓮・大武・霧社等での原住民との面会を設定した。霧社事件から五年後、埔里で整列した「霧社蕃」の人々を見せられた弥生子は、事件の場所や生活の見学を新たに求め、官憲側に味方したパーラン社を訪問している。
原住民に関する弥生子の見解と想像は、官憲側から与えられた情報をもとに展開するが、その発言はさらに、同行した文教局の河崎寬康によって批判される(『台湾時報』一九三六・二)。弥生子の言説には無自覚的な原住民族への優越意識を含むエキゾティシズムが見られるが、その一方で弥生子は、芸術と教育について自由主義的感覚を持ち、原住民の文化保存、経済生活の変化を「正しく」導く必要、内地人の「偉さ」を植え付ける国粋主義的教育への懸念に加え、警察による原住民教育の継続を疑問視する見解を発言していた。これは理蕃政策に沿って官憲が弥生子の視察に期待したものと、逆行していたのである。
本発表では、『台湾日日新報』『台湾愛国婦人新報』等を参照しつつ、『台湾』における弥生子の視座が、理蕃政策の影響下にありつつそれを超える要素を持つことを検証する。それは第一に、弥生子の文化・教育に対する感性であり、第二に、原住民知識人の描写が、語り手(弥生子)の優越意識による人間洞察の限界を示しながらも、その複雑な内面を読者に感知させる点である。
○「龍山寺の曹老人」論――日本統治期台湾における探偵小説と台湾民俗保存活動――
辻明寿
金関丈夫(一八九七~一九八三)は台北医学専門学校助教授として来台し、終戦まで台北帝国大学医学部教授をつとめた。一九四一年に池田敏雄等と共に『民俗台湾』を創刊、台湾の民俗を研究する傍ら、台湾で最初の本格的探偵小説『船中の殺人』や「龍山寺の曹老人シリーズ」等を日本語で執筆した。
「龍山寺の曹老人シリーズ」に関する先行研究では金関が探偵小説というジャンルの特性から台湾人に対する教育的な意味をすべり込ませているという指摘や、曹老人の日本帝国の言説に寄り添った説教は、作者である金関が発表媒体である『台湾公論』のテイストを意識したものだったという指摘がある。
日中戦争勃発後、台湾総督府は皇民化運動を開始し、台湾の既存の宗教に対する多くの改革を行い、台湾独自の宗教儀式は抑圧されていった。龍山寺も曹洞宗の末寺となり、教育事業等を通じて台湾民衆の皇民化をすすめていた。
しかし、「龍山寺の曹老人シリーズ」では日本帝国が推進する皇民化運動は描かれず、当時抑圧されていたはずの台湾独自の宗教儀式が描かれている。金関は『民俗台湾』において民藝紹介をしつつ、同時に目に見えない文化の保存の重要性を訴え、「人間の気風の良さ」の保存の重要性を説いていた。「龍山寺の曹老人シリーズ」において、民藝紹介では描けなかった当時の台湾人の信仰の形式や気風を小説という形式を用いて保存しようとしていたと考えられる。