2019年度日本近代文学会関西支部春季大会 発表要旨(小特集企画)

■小特集企画「日本浪曼派の戦後と西日本発のリトルマガジン」

〔趣旨〕
敗戦後日本における文学同人誌の群生は、北九州で創刊された詩誌「鵬/FOU」に始まる。同時期に現れた数多の同人誌のなかでもとりわけ異彩を放つのが、一九四七年に神戸で創刊された「VIKING」である。竹内勝太郎に私淑する富士正晴・野間宏・竹之内静雄の「三人」グループを中心に創刊されたこの雑誌には、直前に終刊となった「光耀」の島尾敏雄・庄野潤三・林富士馬が参加した。伊東静雄に私淑する「光耀」グループの合流によって、本誌は戦後における日本浪曼派の伏流を支える雑誌となった。
同じころ、北川晃二を中心に、戦中の「こをろ」の後継誌として九州発の雑誌「午前」が創刊された。谷川雁、大西巨人ら九州出身の若手文学者のほかに、檀一雄、佐藤春夫、旧「光耀」の面々(島尾・庄野・林・三島由紀夫ら)を執筆陣に擁している。本誌もまた、政治的立場を異にする文学者たちを包摂しながら、日本浪曼派の伏流を支えた戦後雑誌である。
敗戦直後より伏流していた日本浪曼派の営みは、檀一雄を中心に創刊された雑誌「ポリタイア」に受け継がれる。近畿大学・世耕政隆の経済的な支えを得て刊行されたこの雑誌には、林富士馬や真鍋呉夫ら、上記の戦後雑誌の出身者らが多く名を連ねた。のみならず、全共闘運動の時代に創刊された本誌は、保田與重郎を筆頭とする日本浪曼派の言説を、戦後世代の立場から再評価する機運を醸成した。
このように、関西から九州にかけて叢生した諸々のリトルマガジンに目を向けるとき、興味深いのは、それらが敗戦に伴って解体した日本浪曼派の受け皿となったという事実である。本企画では「光耀」「午前」「VIKING」から「ポリタイア」へと至る系譜に注目し、文学史的にはほとんど消去されている日本浪曼派の戦後を、西日本におけるリトルマガジンとその人脈を検証することによって可視化する。それを通じて、日本浪曼派の文学精神が戦後という時代といかに対峙したかを明らかにしたい。

〔発表要旨〕
○戦後神戸のリトルマガジンと、島尾敏雄・庄野潤三など――「光耀」「VIKING」「タクラマカン」――
西尾宣明

島尾敏雄は、復員直後に庄野潤三とともに神戸で「光耀」を創刊する。第一輯の「編輯後記」で、この雑誌が戦前の「まほろば」の系譜に属することと、林富士馬の人脈から三島・庄野・大垣圀司が集ったことを記し、刊行の趣旨を「いかなる世にも芸術の純美の血統たらんこと」と庄野は宣言している。「日本浪曼派」とのつながりをもち、いわゆる左翼的潮流とは一線を画していたことがわかる。また、掲載された小説には戦後性が濃厚に読みとれる。三輯に掲載された庄野『居眠り王様』・島尾「夢中市街」を検証しながら、三輯までのこの雑誌の成り立ちと特性を考えてみる。発表はこれが中心となる。
一九五〇年ごろまでの「VIKING」の、同人たちの動向やその関係については、「中尾務の 島尾敏雄 富士正晴」(「脈」八四号、二〇一五年五月)に詳しい。一方で、創刊号「編輯記」で富士は「どちらの方角へ出掛けるのか(略)しばらくたてば僕等にも判ってくるだろう」と雑誌の性格を記している。島尾など同人たちの文学的営為から、初期「VIKING」の性格を探る。
最後に、島尾と神戸市外大に学生たちによる「タクラマカン」を紹介しておきたい。この雑誌は、第一期が一号(一九五〇年二月一日)~二二号(一九五四年三月一〇日)まで、第二期として、一九九〇年四月に二三号が刊行され現在五八号まで続いている。その同人たちの名が初期「VIKING」の維持会員名簿にも認められ、同人たちの文は、当時を知る貴重な証言ともなっている。

○「日本浪曼派」から「午前」への接続と断絶
長野秀樹
第一次「午前」が創刊されるのは昭和二一年六月、編集人は北川晃二、発行所は南風書房である。北川や南風書房が商業雑誌発行に関係するのは戦後になってからのことであり、そうした意味では「日本浪曼派」と「午前」を直截的に両者が繋ぐわけではない。「日本浪曼派」からの連続を考えようとすれば、補助線が必要になる。補助線の一本は檀一雄。もう一本は眞鍋呉夫。更に「こをろ」を実質的に主宰した矢山哲治(すでに故人ではあるが)。
一方で、北川が雑誌創刊に果たした役割は大きく、創刊号に掲載された「逃亡」や「戦野行旅」(第二巻四号~三巻二号)など中国戦線に取材した作品など、戦争を体験した世代の新時代へのスタートという戦後雑誌としての特徴を、それらはよく表している。
もちろん、両者が二者択一的に整理されるわけではないが、「日本浪曼派」同人としての檀の人脈が誌面作りに大きな影響を与えたことは間違いない。佐藤春夫、中谷孝雄、芳賀檀、そして三島由紀夫。こうした名前が目次に載るのである。また、矢山の私淑した文学者の一人が旧制福岡高校の先輩後輩にあたる檀であり、眞鍋もまた、「こをろ」の同人であった。その三本の補助線と編集人としての北川が絡み合う形で「午前」は福岡市で生まれた。北川が残した証言や、花田俊典『清新な光景の軌跡――西日本戦後文学史』(「西日本新聞」)などに拠りながら、その「絡み合う形」を考えたい。

○「ポリタイア」と戦後のロマン派
近藤洋太
私が東京の大学に入ったのは、一九六九年、全共闘運動が盛んな時期だった。ある時、先輩から渡された「遠くまで行くんだ……」という雑誌に瞠目した。それは、既成の新左翼の雑誌とは違う、自分たちの言葉で世界を語ろうとした雑誌だった。そのなかの新木正人(一九四六―二〇一六)の「更科日記の少女」は、私を「日本浪曼派」、保田與重郎にいざなった。大学を卒業する間際、眞鍋呉夫の紹介で檀一雄が主宰する「ポリタイア」に加えてもらった。そこでロマン派、その近傍にいた人たち、戦後、ロマン派に親近した人たちと出会った。私がそこで知ったロマン派は、想像していたよりずっとおだやかで、また激しかった。古木春哉(一九三〇―二〇〇四)の「ポリタイアに拠る」は、戦後のロマン派の復権を言った。彼は「ポリタイア」以降、書かなかった。七十歳を過ぎて「ポリタイア」の再刊を言った、書かないことにじれていた。ロマン派の核には、こうした志向があった。谷崎昭男(一九四四―)は、保田與重郎の晩年の十数年間、彼の身近にいた人で、谷崎氏の文業の多くは保田の文学の顕彰にあてられている。なかでも、近年刊行された『保田與重郎――吾ガ民族ノ永遠ヲ信ズル故ニ』は、今後、保田與重郎を研究するものにとって、必読のものと言えるだろう。私は、今日の文学の表側にはなかなか現れない、けれども決して無視することのできない、彼らについて語りたいと思う。

○コメンテーター
越水治
〈略歴〉一九五一年、大阪生まれ。立命館大学卒。三人社社主。出版社歴約三五年。前職の「不二出版」では、富士正晴・野間宏・桑原静雄の詩雑誌「三人」や戦後福岡で発行された「午前」「文化展望」、また「サークル村」「ヂンダレ」などサークル運動の関係資料の復刻版を担当。定年後の二〇一二年一月に「三人社」を創設し、「月刊にひがた」や「月刊西日本」など戦後地方雑誌の発掘に関心を抱く。その他の復刻出版物に、戦後の詩雑誌である初期「VIKING」「現代詩」「わが青春の記録」などがある。