2019年度日本近代文学会春季大会 発表要旨(自由発表)

自由発表要旨

○柳田國男における「郷土研究」の構成――ペンネーム研究を通して――
鄭悦
 本発表では、民俗学の草創期における柳田國男の「郷土研究」の構成を明らかにするために、第一期『郷土研究』誌(一九一二年三月.一九一七年二月)を取り上げる。複数のペンネームを使い分けるという彼の独特な方法を分析し、文学的要素の構造上の役割を検討し、柳田國男の初期思想の形成に新しい視点を提供したい。
 柳田國男と文学については、その美文序や紀行文、旧派和歌など文学香の高さが評価される一方、散文的な文体と奇抜な連想に富んだ論じ方が俎上に載せられることも多い。しかし、こうした民俗学者・文学者の二つの顔を結び付けて評価する中、ペンネームという象徴的な文学者行為が〈民俗誌〉という場で発生することに関する研究は、管見には入らなかった。
 そこで本発表では、第一期『郷土研究』誌上に、ペンネームによって発表された柳田國男の文章に焦点を当てて考察する。現段階の調査で、「川村杳樹」が女性、「久米長目」が山人、「尾芝古樟」が「柱」(神木)に関する内容、というように、ペンネームと主題に密接な関係が存在し、〈自己命名〉と〈郷土事象の命名〉が同時に成立していることが確認できた。〈もう一人の自分〉を次々に作りつつ、自らが編集する雑誌に様々な文章を寄稿した柳田國男とはどのような人物だったのだろうか。ペンネームと発表文章の関連性はもちろん、過去の作品との関わりやペンネーム間の交渉などを、コンテクストに於いて分析する。
 柳田國男が使用したペンネームは十六にものぼる(郷土研究社・郷土研究編輯所・郷土会(一九七六)、『復刻版 郷土研究 別冊』、名著出版)。この全てを駆使して、学問の作業を劇的に展開してきた『郷土研究』時代の柳田國男、このような視点から彼の〈文学的〉な出発点を確認し、再評価することを本発表の目的としたい。

○尾崎翠「こほろぎ嬢」論――分身共同体としての語り手――
山根直子
 尾崎翠が昭和七年に発表した「こほろぎ嬢」は、「私たち」という一人称複数形の特殊な語り手を用いている。従来「私たち」の正体は謎に包まれていたが、本発表は本文の精読を通し、前作「歩行」と本作の一か月後に発表された「地下室アントンの一夜」に登場する小野町子と土田九作であることを明らかにする。「私たち」(九作/町子)は本作にも登場する実在の男性詩人シャープと彼のもう一つの人格であった女性詩人マクラウドの分身関係を模した作者翠の分身共同体である。翠が典拠とした薄田泣菫や木村毅の論考に拠れば、シャープは自分の心が男性の時はシャープ、心が女性の時はマクラウドとして筆を執り、この二つの人格が「合作」を行なうこともあった。町子は翠の心の中の女性、九作は男性の部分の分身であり、「歩行」から「地下室アントンの一夜」で町子から九作へ語りの主体が交代することはシャープ/マクラウドの人格の交代による創作方法、本作の語り手「私たち」は男女二つの人格が「合作」する創作方法を模した構想と考えられる。泣菫や木村は既存の男性中心的な文学を乗り越え「芸術は性を超越すべきものである」と主張し、その理想形としてシャープ/マクラウドを紹介する。翠はこれに触発され、男女の性を併せ持つシャープ/マクラウドを模した語り手「私たち」を用いたと考えられる。さらに、本作は他作品の登場人物が作者を語るというフィクションと現実の上下関係の転覆が描かれている。これも従来の男性中心的なピグマリオン・コンプレックスの構造を持つ小説へのアンチテーゼであり、本作は新たな文学を模索する翠の果敢な試みが表れている作品と言える。

○堀辰雄における佐藤春夫――『車塵集』の受容を中心に――
劉娟
 堀辰雄(一九〇四年十二月~一九五三年五月)の中国古典への関心は、昭和十五年(一九四〇年)頃に始まり年齢を重ねるごとに強まり、彼の亡くなるまで続いた。小山正孝氏(「断片」『文芸』一九五七年二月号)は、「堀さんが、もし、もっと永く生きていられたら――というより、晩年の十年間も、執筆が続いていたら――中国のこともお書きになったのではないかと思う。」と述べている。確かに堀の作品には中国の古典をテーマとしたものはほとんど見られない。わずかにエッセイ「一琴一硯の品」(「甲鳥」 一九四一年十一月 後に「我思古人」と改題)で堀が手に入れた幾つかの中国の蔵書印について触れているだけである。しかしその一方で、堀は五つの中国古典ノートを残している。
 一方、堀の師佐藤春夫(一八九二年四月~一九六四年五月)は、自ら「支那趣味愛好者」の「最後の一人」(「からもの因縁」 『定本 佐藤春夫全集 第二二巻』 一九九九年八月 臨川書店)だと称し、中国文学関係の作品を夥しく残していた。殊に、彼は『車塵集』(一九二九年九月 武蔵野書院)という中国閨秀詩訳詩集を以て、漢詩の「継承と先鞭」(江新鳳 「佐藤春夫『車塵集』の原典とその成立(其の二)」 『汲古』 一九九二年六月)の役割を同時に果たし、第一人者となった。
 堀夫人の記憶によると、堀は佐藤の『車塵集』によって、「中国の詩の美しさを知った」(堀多恵子 「ひとこと」『杜甫詩ノオト』所収 一九七五年十二月 木耳社)。このように、堀晩年の中国古典への関心において、『車塵集』が大きな役割を果たしていたことは間違いない。堀晩年の中国古典への関心において、『車塵集』は具体的にどのような役割を果たしていたか。今回の発表は、そのことを中心に考えていきたい。