2008年度春季大会 シンポジウム発表要旨

 2007年度日本近代文学会関西支部春季大会のシンポジウム発表要旨は以下の通りです。
■織田作之助の関西弁
        宮川 康(大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎)

 以前から気になっていたことがあった。ひとは小説を何弁で読んでいるのか。もちろん音読する場合のみならず、むしろ黙読する場合に。たとえば、織田作之助『夫婦善哉』の冒頭の一文「年中借金取が出はいりした。」は、東京弁アクセントで読むのと、関西弁アクセントで読むのとでは、ずいぶん趣を異にする。さらにこの小説のすべての文章は、関西弁アクセントで浄瑠璃語りのように読まれるべきであり、東京弁アクセントを基調とした黙読では、この小説の魅力は到底理解されまい。もちろん、織田自身は充分にそのことを意識していたろう。それは織田が自らの作家的個性の土台としようとしたものであったかもしれない。ただ、黙読されることを前提とした近代小説においてそのような個性があるがままに受け入れられなかったのも無理のないところであった。織田の小説のすべてがこのような個性の下に書かれているわけではなく、戦後の『競馬』や『世相』を読むのにことさら「何弁か」を意識する必要はあるまい。思えば、織田の最初の習作である戯曲『落ちる』は全編泉州弁の応酬であったが、その後の戯曲の台詞はすべて東京弁となり、小説第二作『雨』が書かれるところで織田の中の関西弁が再び蘇る。そして『夫婦善哉』が書かれるのである。そのあたりの過程。また、織田の小説における関西弁は大阪弁ばかりではなく、京都弁や和歌山弁を話す登場人物も現れる。それらの持つ意味なども考えてみたい。
■〝関西弁〟 からみる大岡昇平の文学
        花﨑 育代(立命館大学)

 シンポジウムのタイトルのなかにあるのは「大阪弁」や「京都弁」といったことばではない。またこれらのエリアを示していう「関西」を冠しているが「関西ことば」や「関西方言」でもない。『日本国語大辞典』(小学館)には第二版で掲載されるようになったものの、初版には載っていなかった、しかし流通している「関西弁」である。「方言」とはいわないが「ことば」ともいわない。
 専門ではないからいろいろ書くのは憚られるが、社会言語学では「日本の中心言語」は近世、具体的には文化文政期ころに「関西から関東に移」ったとする(真田信治、山口仲美など)。文学資料としては『浮世風呂』などが知られている。近代のいわゆる国民国家形成期の「標準語」策定時期以前に、京都・大坂を中心とする「上方語」から「江戸語」そして「東京語」へという流れがあったのである。各地方言書が規準とすることばも十八世紀中頃に上方語から江戸語へと移行してもいるようである。
 つまり、当然のことながら「関西弁」は他の方言とは違いかつて規準のことばであったものが近世期にその位置を江戸語に譲ったことばである。それが「関西弁」というニュアンスに関係ないのかあるのか―。
 近代の文学者はこの「関西弁」をどのように考え用いたのか、それは私たちにまた時代社会にどのようにうつっていくのか、というのがシンポジウムの趣旨とおもわれるが、今回発表者が扱うのは大岡昇平のいくつかの文章である。周知のように大岡は東京の生まれ育ちである。しかし両親は和歌山出身であり、大岡自身も大学は京都、また戦前に神戸で会社員生活を送っていて、「関西弁」の空間で生活している。関西の人間ではないが旅行者でもない、近代のいわゆる〃上京者〃の第二世代として、短期間ながら生活者として「関西弁」の中に生きた作家の作品を対象にすることで、〈 近代文学のなかの 〝関西弁〟 〉を考えてみたい。
■三島由紀夫「絹と明察」論       
        木谷 真紀子(同志社大学嘱託講師)

 『絹と明察』(「群像」昭39・1~10)の取材旅行で関西を訪れた三島由紀夫は、中村光夫宛の書簡で「関西へ久々に来てみると、関西弁は全くいただけず、世態人情、すべて関西は性に合はず、外国へ来たやうです。尤も、小生純粋の江戸ッ子ではなく、祖父が播州ですから、同族嫌悪の気味があるのかもしれません」と述べている。これは、〈三代〉という江戸っ子の定義にこだわった表現であり、生涯を通して東京で生活した三島は、日常的に関西弁の内側で生活した経験がない。
 しかし三島作品には、関西のことばを話す登場人物が描かれる。その代表とも言えるのが『絹と明察』の駒沢善次郎、『豊饒の海』の月修寺門跡、また綾倉聡子であろう。後者二人は〈京ことば〉話者であり、三島が『豊饒の海』取材ノートに「京都弁」と明記していることを考え、今回は昭和二十九年に起きた近江絹糸の労働争議を扱ったモデル小説である『絹と明察』の駒沢を考察の対象としたい。
 発表では、まず実際の事件や時代背景と三島が描いた作品世界を比較する。本作の作品舞台は滋賀、京都であるが、関西人・関西弁話者は駒沢夫婦のみと言える。関西弁に対しては、常に〈他者〉であった三島にとって、関西弁とは、関西とは、いかなる存在であったのだろうか。〈地の利〉をいかして、三島が作品の舞台を何故、京都と滋賀に設定したかという点について考え、駒沢の人物像とその関西弁、作品舞台がどのように関わっているかを検証したい。
■阪神モダニズム再考
        井上 章一(国際日本文化研究センター)

 両大戦間期の阪神地方では、尖端的な文化が開花したと、よく言われる。美術、建築、音楽方面のそれなどが、これまでにもとりざたされてきた。近年は、それらを阪神モダニズムとひとくくりにすることも、多くなっている。
東京中心のモダニズム論に、反省をうながす。阪神間の山手にすむブルジョワたちも、東京と同等、あるいはそれ以上に、ゆたかな文化をはぐくんでいた。そのことを、もういちど見なおすべきだ。とまあ、そんなかまえで語られることが、すくなくない。
 しかし、あのエリアがうかびあがらせた文化を、阪神のモダニズムとよぶことに、私はためらいをおぼえる。なるほど、あの文化をうみだした地域は、阪神間に位置している。しかし、阪神の、関西の文化であったと、そう単純にはみとめがたい。
 あの地域では、二〇世紀のなかごろまで、関西言葉があまりつかわれていなかった。いや、それを見下すような風も、あったと思う。「おほほ、ざあます」階層のおばはんたちに、とりわけその傾向は、強かったろう。
もちろん、関西言葉がぬぐいさられていたわけではない。しかし、あたうかぎり、東京弁へよりそうよう、つとめられていた。そのため、東京風にねじまげられた関西言葉が、撞行していたのである。阪神モダニズムは、関西からの離脱をこころざしていた手合によってささえられていたことを、かみしめたい。