[自由発表要旨]
高浜虚子「朝鮮」における文学者の想像力
都田 康仁
高浜虚子「朝鮮」は、一九一一年に『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』で連載され、翌年二月に実業之日本社より出版された長篇小説である。本作では、文学者の「余」が妻と共に植民地朝鮮を旅してゆく。同時代においては、日本が併合してまもない朝鮮という場所を文学の題材としたことが評価される一方で、その描き方が外面的なものに終わっている点が批判された。虚子は本作を「写生主義と小説との愚鈍なる戦闘」の産物だと称している。以上を踏まえ、先行論では、朝鮮を描き出す虚子の写生文の手法の是非が論じられてきた。
「余」は、訪れた場所の歴史的記憶を想起したり、朝鮮の現状を過去の日本と重ね合わせたりする。他方、現実の事情を無視して勝手な想像を膨らませることもある。注目すべきは「余」自身が「文学者」とは「空想」を行なう存在であると言及していること、また「余」の行動が周囲の人物の冷笑によって相対化されてもいることである。すなわち、朝鮮の歴史的記憶の想起と日本との重ね合わせ、現実と乖離した空想は、いずれも文学者による恣意的な営為であるという自覚の上に行なわれている。なおかつ、それらが他者に批判されうるものであることを、本作は明示しているのである。
朝鮮を描き、そこでめぐらされた「余」の思考を記す本作は、それを通して文学者の営為をどのようなものとして提示しているのだろうか。本発表では、虚子の周辺人物や旅の動機となった新聞社の動向などを明らかにしつつ、本作における文学者の描き方の批評性について検討する。文学者の営為と、それが朝鮮という場所において帯びてしまう政治性とを併せて提示する本作は、日本人の「国民性」が問われたこの時代、あるいは作品を通じて一つの人生観を示そうとする同時代文学への批評性を有しているのである。
長谷川伸「荒木又右衛門」論──小説・講談の受容をめぐって──
原 卓史
長谷川伸「荒木又右衛門」(一九三六~七年)は、一六三四年一一月、伊賀上野鍵屋の辻で、荒木又右衛門が妻の弟・渡部数馬を助けて、数馬の弟・源太夫の敵・河合又五郎らを討つことを描いた小説である。長谷川文学の代表的な作品のひとつとして、繰り返し研究されてきた。①尊属が卑属のために敵討をすることはできないこと、②岡山藩主・池田宮内少輔忠雄が上意討ちにせよと命じてはじめて数馬は又右衛門の助太刀を得て又五郎を討つことができるようになったこと、以上の二点が長谷川の独自性とみなされてきた。
しかし、これらの点については、直木三十五「荒木又右衛門」(一九三〇)が、長谷川に先んじて描いている。それゆえ、長谷川の独自性とはいいがたい。そこで本発表では、当該作品は何を典拠としたのかを、直木作品との比較や直木作品の典拠も明らかにしつつ考察していきたい。大名と旗本の争い、徳川幕府の対応などに翻弄される人たちを、又右衛門だけでなく周辺人物も含めて検討したい。
また、長谷川文学は講談との比較も欠かせない。長谷川「生きている小説」(一九五八)は、小金井蘆洲が「伊賀の上野で荒木又右衛門に三十六番斬り」をさせたと指摘したように、講談受容の検討も重要である。蘆洲「荒木又右衛門」(一九二一)を中心に、講談受容の一端を明らかにしたい。本発表では、小説や講談をどう受容したのか、「荒木又右衛門」の成立過程を検討するとともに、又右衛門を取り上げた作品群の中での位置づけも考察していきたい。
織田作之助「女の橋」「船場の娘」「大阪の女」における架空の大阪
──宗右衛門町の考察から──
※【11/3追記】副題を修正しました
淺岡 瑠衣
「船場の娘」、「女の橋」、「大阪の女」は、この順番に、それぞれ親子の女性の人生を描いた三部作である。
これら三作品は、「母娘の三代の物語」(細川涼一氏「織田作之助『船場の娘』――大阪船場の母娘三代記」(『京都橘大学 女性歴史文化研究所CHRONOS vol.31』平成二十一年十月))として、大阪で生きるそれぞれの世代を代表する女性という読みが多くなされてきた。本発表では、物語の要である太左衛門橋に注目して、雪子の半生を描いた物語として読み替えることを試みる。
太左衛門橋に着目をする際に留意しなければならない点は、作之助が「架空の大阪」を描くという点である。ここでの「架空の大阪」とは、描かれた時代には存在したはずの物があえて作品の中では描かれていないということである。そのことについては先行研究でも指摘されている(橋本寛之氏『都市大阪・文学の風景』(双文社出版、平成十四年))上に、本人の口からも同じ事が語られている。作之助が描く大阪は架空であるとするならば、「女の橋」「船場の娘」「大阪の女」の三作品で主に描かれている太左衛門橋や宗右衛門町、船場も架空であった可能性がある。そこで本発表では、太左衛門橋とそこに繋がる宗右衛門町に焦点を当て、当時の街並みで生きていた人々と小鈴と雪子を比較・検討した上で、作之助の言う「架空の大阪」が反映されていたのかを検証する。
この三作品における宗右衛門町は当時の大阪を色濃く反映するための場所として選ばれており、実際には芸妓の養成所の役割を担っていた大和屋の変化をあえて描かないことによって、作品の時代設定当時の宗右衛門町とは異なる一昔前の同町、つまり「架空の大阪」を描いたと結論づけることができる。