2014年度 日本近代文学会関西支部春季大会発表要旨

発表要旨 自由発表
空転する「デカデンツ」
 ─昭和一〇─一一年「デカダン論争」の問題圏─

福岡 弘彬(同志社大学大学院生)

 昭和一〇年一〇月、保田与重郎は「日本浪曼派」に「主題の積極性について(又は文学の曖昧さ)」を発表する。保田はこの晦渋な芸術論において、自分たちこそがポスト・マルクス主義を担う者であることを、「デカデンツ」の語を用いて表明した。この語を符牒とした一枚岩の「日本浪曼派」を偽装する保田であったが、しかし彼が「僕ら」と想定した共同体内部からも、その外部からも、「デカデンツ」は罅入れられ、壊体されてしまう。同時期文壇において〈デカダンス〉問題が喧しくなる中で、「デカデンツ」は現代の若者の虚無的・頽廃的傾向の問題へと転轍され、ほとんどついに理解されることはなかった。「ほゞ一年の間にデカダン文学といふことは、日本の現文壇人を総動員してあらぬ方に歪められて了つた」(保田与重郎「文芸時評」、「日本浪曼派」昭11・9)――。
 保田与重郎自身「デカダン論争」と呼ぶ右のような事態を復元することが、本発表の狙いである。「主題の積極性について(又は文学の曖昧さ)」を焦点に、保田が「デカデンツ」に込めた意味と戦略を明らかにした上で、「論争」――とは到底呼べぬものであるが――の推移を整理することで、その語の概念化・伝達の失敗を辿る。文壇を空転する「デカデンツ」の軌跡を追いながら、しかし確かにそこに生じていた〈デカダンス〉の新たな可能性を考察したい。
初期日本SFにおける「核」の表象
 ─一九六〇年代半ば~七〇年代初頭の
                  ショート・ショート作品を中心に─

森下 達(京都大学非常勤)

 本発表では、一九六〇年代半ばから七〇年代にかけて、ジャンル的な成立を果たした後の日本SFに対して、ショート・ショートを中心に検討を加える。問題になるのは、以下の二点である。ひとつ目は、ショート・ショート作品において、核戦争による破滅や放射線被曝による奇形化などのモチーフが、わかりやすい「オチ」としてしばしば用いられたこと。ふたつ目は、同時代における原子力発電事業の拡大を背景に、電力会社のPR誌や、日本原子力文化振興財団の発行する『原子力文化』に発表された諸作品において特に、完全な電化がなされた未来社会が作品の舞台として描かれたことである。結果、被爆/被曝に対する恐怖感が、現実の国際情勢から切り離され、切実さを失っていった一方で、一九四〇~五〇年代に夢想されていた原子力による理想社会というヴィジョンは、単なる未来の日常として、政治問題化されない形でより広く受け入れられるようになっていった。
 星新一に代表されるSF作家は、ショート・ショートにおいて顕著だが、あざやかな視点の転換による価値の相対化をその中心的な方法論としてきた。初期の日本SFにおける「核」表象を論じることは、SF的な相対化の方法論が、社会的なテーマにいかに関わり得るのか、あるいは、関わることができないのかを考える上での手がかりを与えてくれるだろう。エッセイなども俎上に載せることで、SF作家たちが拠って立つSF観、科学観を問い直し、問題に答えたい。
連続企画 文学研究における〈作家/作者〉とは何か
    ―第三回―  小特集「サブカルチャーと〈作家/作者〉」

 
TVアニメにおける監督の位置
 ―『まどか☆マギカ』における演出スタイルから―

禧美 智章(立命館大学非常勤)

 多数のスタッフの手によって制作されるアニメーションにおいて、〈作家/作者〉あるいは「作家性」の問題はどのように捉えられるべきだろうか。例えば、作品全体を統括する役割を担うのが監督であるが、細分化された制作過程のなかで監督が各制作パートのどこまで関わっているのかが不明瞭であるという問題が存在する。特に、限られた予算と時間のなかで毎週三〇分の作品を制作しなければならないTVアニメの場合、ストーリーに関しては、監督の他に何名もの脚本家やストーリーを統括するシリーズ構成が加わる制作体制、演出に関しても、監督の指示のもと、各話ごとに異なる演出家が担当する制作体制が一般的となっている。
 本発表では、主に二〇一一年に放映された、虚淵玄脚本・新房昭之監督のアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』を取り上げ、その演出のあり方に着目する。本作は、脚本家の虚淵氏が全てのシナリオを担当しているが、インタビュー等でシナリオがキャラクター等の設定に先行して執筆された上で、制作がなされたことが明らかにされている。発表では、同じシナリオを小説化、マンガ化したノベライズ版、コミック版との比較を補助線に、シナリオと映像の比較分析を行う。虚淵氏による脚本を監督である新房氏がいかに映像化しているのか、そのイメージの展開を考察することを通して、TVアニメにおける監督の位置を明らかにし、TVアニメにおける〈作家/作者〉の問題を検討する。
「記号としての作者」は死につつあるか?
 ─「実話怪談」系文庫の変遷とホラー作家─

奈良崎 秀穂(プール学院大学非常勤)

 ここで用いている「記号としての作者」というのは、例えばこの作家の新作が出たらストーリーもなにも知らなくても無条件に買う、といった意味合 いで作用している換喩的な「記号」である。現在一部で支持を得る「実話怪談」系文庫というジャンルは、こうした「記号としての作者」が介在しづら いジャンルなのではないか?
 「実話怪談」系文庫は九〇年代半ば以降、急速に発行点数を伸ばし、一ジャンルを築いた感があるが、それは古い記号性に頼った「中岡俊哉」的なものを否定することによってもたらされたのではなかったか。九三年以降「実話怪談」系文庫は『「超」怖い話』シリーズと稲川淳二を軸に回り始めた。いわば、「中岡俊哉」という記号によって喚起される古き怪談は見捨てられ、無名の一般人=「記号性を持たない作者」という新たな記号による実話怪談が発見されたのである。
 角川ホラー文庫というレーベルは、「記号としての作者」を一方に置き、もう一方に新たに発掘した新人を配して、約二十年に渡りホラー小説界をリードし続けてきた。そこでは新たな「記号としての作者」を生み出しもしたが、また多数の新人を見捨ててもきた。それはおそらく新たなビジネススタイルだったのだろう。取り敢えず多数の新人を発掘するというスタイルは、その後「実話怪談」系文庫にも及び、そこでは作者という記号性が剥奪され、「無名性」が作者に代わる記号として作用する状況を生みだしている。
「分身」としての主人公
―さくらももこ作品における〈笑い〉の変容─

山田 夏樹(駒澤大学ほか非常勤)

 さくらももこ「ちびまる子ちゃん」(「りぼん」一九八六・八~九六・六。以後不定期掲載)は、一九七四年の静岡県清水市を舞台とする「エッセイ・コミック」として描かれていた。しかしその後、揺れはありながらも、徐々に作者「さくらももこ」と主人公「まる子」は解離し、ノスタルジーを喚起するものではなく、多くの登場人物が戯れる様相を描き出す側面の強い作品に変容していくこととなる。
 九〇年代初頭にブームとなった当時から、実際にはそのようなポストモダン性は指摘されてもいたのであるが、一方で、「まる子」が自身の「分身」「一部」になっていったことも作者によって主張されていく。つまり、登場人物として対象化していく過程と、自身と一体化するように認識していく過程が並行して行われる。そして、そうした一見相反する構図において、本作は単に「エッセイ・コミック」から離れるだけでなく、〈笑い〉の性質も大きく変容させることとなっていく。
 今回、そうした仕組みに注目することにより、作品内に登場する作者、または主人公の機能について改めて考察していきたい。少女マンガという表現形態や、ベストセラーとなった『もものかんづめ』(集英社、一九九一・三)から現在に至るまで描き続けられている一連のエッセイ、また同時代の〈笑い〉などとの関わりについても言及する。

2014年度 関西支部春季大会 研究発表募集のお知らせ

日本近代文学会関西支部では、2014年度春季大会での研究発表を、自由発表および小特集企画それぞれで募集いたします。支部会員の皆さまの積極的なご応募をお待ち申し上げます。
日時会場 2014年6月7日(土)/於 奈良大学
募集人数 自由発表  2~3名
      小特集企画 1~2名
       (他に支部依頼の発表を予定)
特集企画 サブカルチャーと<作家/作者>
       応募資格 日本近代文学会関西支部の会員であること
応募締切 2014年2月28日(金)[当日必着]
応募要領 発表題目および600字程度の要旨を封書でお送りください。必ず連絡先(電話番号・メールアドレス等)も明記してください。
その他  発表時間は自由発表、小特集いずれも30分程度です。採否については、運営委員会で決定次第お知らせいたします。
送付および問い合わせ先
      日本近代文学会関西支部事務局
      

2014年度 関西支部春季大会小特集企画

【小特集企画】
サブカルチャーと〈作家/作者〉

※2013年度から始まった連続企画「文学研究における<作家/作者>とは何か」(全4回)の第3回にあたる特集です。
趣旨
 日本近代文学会関西支部では〈作家/作者〉の問題を継続して扱ってきたが、連続企画の第三回目はアニメーション・マンガ・ライトノベルなどのサブカルチャーの分野からこの問題をとらえてみたい。
 サブカルチャーにおいては、共同制作や分業、アシスタントや編集者の介在、読者アンケートによる連載の打ち切り・引き伸ばしが常態化し、〈作家/作者〉が思い描いていた物語とは変化していくことも少なくない。さらにスポンサーの影響や商品としての側面、アニメ化・ゲーム化、読者による二次創作などの広がりを視野に入れれば、〈作家/作者〉のイメージはきわめて複雑になってくる。
 たとえば、近年、マンガ家を描いたマンガやエッセイマンガなどが好評を得ているが、小説家小説(=私小説)の流行と並べてみると、近代小説と通底するものが見えてくるかもしれない。一方、サブカルチャーにおける共同制作や分業、メディアミックス等の視点と、近代文学研究とを突き合わせたとき、われわれが持ちえた従来の問題意識以外にも、近代小説の新しい相貌が立ち上がってくる。編集者の存在、あるいは映画化・テレビドラマ化等が〈作家/作者〉におよぼした影響について、きちんと考察されてきたとは言い切れないのが現状ではないだろうか。
 今回の小特集では、サブカルチャーにおける〈作家/作者〉について問い直す試みを行い、あわせてサブカルチャーでは自明視されてきたが近代文学研究では未だに十分に検討されてこなかった問題についても考えたい。対象は多岐に渡るであろう。様々な視点からの切り口をもとに、刺激的な意見交換の場となることを期待する。

2013年度 日本近代文学会関西支部春季大会ご案内

※本企画の趣旨と発表要旨>>こちら

日時: 2013年6月1日(土) 13時00分から17時30分
会場: 関西学院大学西宮上ケ原キャンパス B号館103教室

内容:      
・開会の辞   

関西学院大学 文学部長 松見淳子

連続企画(第一回)

シンポジウム「文学研究における〈作家/作者〉とは何か」

司会:木田隆文/山本欣司

・登場人物の類型を通して作者は何を語るか
 ―私小説を起点に―

日比嘉高(名古屋大学)

・〈書く読者〉が見た夏目漱石
 ―文体・ジャンルの社会的機能と〈作者〉―

北川扶生子(鳥取大学)

        
・教室の中の〈作家/作者〉
 ―Takumi’s Adventures in Wonderland―

木村功(岡山大学)

・〈作家/作者〉はなぜ神話化されるのか
 ―文芸解釈の多様性と相対性―

中村三春(北海道大学)

・閉会の辞   

支部長 関西学院大学  大橋 毅彦

・総会
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※総会終了後、関西学院会館2F「風の間」にて懇親会を開催します。会費は五〇〇〇円(学生・院生三〇〇〇円)の予定です。

2013年度 日本近代文学会関西支部春季大会発表要旨

連続企画(第一回)

シンポジウム「文学研究における〈作家/作者〉とは何か」


〔趣旨〕
 かつて、〈作家/作者〉は、作品の唯一のよりどころであり、その作品は思想それ自体を表したものとみられてきた。だが、「作者の死」(R・バルト)の宣言以降、テクストから構成される概念へと位置を移したことで、以前の役割とは異なった相貌を見せるに至った。
 テクスト論の出現から一定の期間を経た後、文化研究、ポストコロニアル批評、ジェンダー研究など、様々な方法論が試されてきた。その都度、新たに立ち上がる〈作家/作者〉の存在があったといってよい。たとえば近年、「私小説」研究におけるパラダイムチェンジがさかんに行われていることも、そうした現象の一つと見ることができよう。肉筆原稿が呼び覚ます〈作家/作者〉も、テクスト生成の現場を考察する上では無視できない対象である。
 一方、文学が親しまれる場に目を向けても、たとえば、教室のなかで文学に触れるとき、あるいは、映画やドラマ、マンガなどのメディアで出会う〈作家/作者〉像、さらには、エンタテイメントやサブカルチャーにおいてキャラクター化されるイメージなど、検討すべき射程は広く、その対象は多様である。
〈作家/作者〉を取り巻く状況が渾沌とする現代において、その存在が投げかける問いは、より複雑な様相を呈している。今こそ、文学場における多元的な〈作家/作者〉へのアプローチを目指すべきではないだろうか。
 日本近代文学会関西支部は、四回の連続企画をもって〈作家/作者〉を再検討する。伝記・年譜研究などに代表される実証的な作家研究の手法から近年の文学理論をふまえた研究まで、それぞれの批評的角度と到達点を捉え直し、研究の新たな地平をきりひらくことを企図する。学会内外からの積極的な参加によって、〈作家/作者〉の現在の位置を測定してみたい。

 二〇一三年度春季大会の特集企画は、本連続企画の総論と問題提起を行う基調シンポジウムと位置づけ、従来の〈作家/作者〉を中心とした研究における問題点の抽出、方法論的な可能性の模索、〈作家/作者〉とその生きる 〝場〟(ローカリティ、文学場、メディア…)との関わりなどを討議する──。
登場人物の類型を通して作者は何を語るか
  ―私小説を起点に─

日比嘉高(名古屋大学)

 「作家/作者」を論じるといっても茫漠としており、何か焦点を作らなければ拡散してしまいそうだ。今回の私の発表では、私小説における主人公を補助線としてみよう。
 主人公の問題というのは、近代文学研究の世界では意外に考えられてこなかったように思う。「余計者」とか「トリックスター」などのように、個別的にあるいは理論的類型として捉えられたものはある。また、この問題に関心を払った先達としては伊藤整がおり、近年の成果では石原千秋『近代という教養』がある。目を転じれば現代のサブカルチャー批評の文脈では、大塚英志や東浩紀らの考察が牽引したキャラクター論(データベース消費)が注目を集め、近現代文学の研究者にも参照されてきた。だが問題の大きさに比して、成果は少ないと言わざるをえない。
 なぜ作家の問題を考えるときに主人公から論じるのか。文学テクストとは、作家がその認知的枠組みに拠って捉えた世界を、物語的諸装置を操作しながら記述=構成し、読者へと伝達する言語テクストである――と考えてみよう。作家はこのとき、主人公を自身と読者の間に置き、その主人公の知覚や思考、動作を描出することを通して、自らが認知した世界像を読者に伝えようとする。したがって、主人公はある種の認知的な「依り代」もしくは「代行者」となる。
 この代行者たる主人公は、原理的にはいかような人物としても書かれうるが、文学史的に眺めれば、いくらかの類型が浮かび上がる。では、類型をもって代行を行うとき何が起こるか。類型はいかなる役割を果たし、何を担っているのか。私小説を例に考えてみたい。
〈書く読者〉が見た夏目漱石
  ─文体・ジャンルの社会的機能と〈作者〉─

北川扶生子(鳥取大学)

 作品は、これまでに書かれた数多くの作品のなかに産み落とされ、古典となった過去の作品との関係において、理解され評価される。作者を、読者の読む行為ごとに立ち上がる像と見るならば、作者の名が様々なかたちで流通するメディア空間におけるこのような古典化への闘争のなかで、読者が立ち上げる作者像に、文体やジャンルという要素はいかに関わるのだろうか。
 文学作品の文体とジャンルは、作品の内部と外部という、文学研究における二項対立を乗り越える契機のひとつである。ある作品で選択された文体とジャンルは、先行作品への何らかの応答であるとともに、特定の社会階層や読者層および世界観とつながっており、しばしば読者の鑑賞法をも方向付けるからである。このようなつながりは、江戸期の学芸諸ジャンルが再編成され、言文一致体による小説が浸透するまでの時期にはとりわけ、幅広い読者に共有されていたが、その社会的な機能が十分に解明されてきたとは言い難い。
今回はこの問題を、一九世紀末から二〇世紀初めの世紀転換期における〈書く読者〉たちが、多様な文体を駆使する夏目漱石の初期作品をどのように読んだかという例から考えたい。この時期、文学作品の読者はしばしば、書くことを楽しみとし、作文の腕を互いに競い合った。作文は、旧来の文体やジャンルへの感性を、〈教養〉として読者が保持する場ともなった。文学とメディアと教育にまたがる作文という領域を経由することで、漱石の像がどのように変化したかを観察することから、文体やジャンルの社会的機能と〈作者〉の関わりを検討したい。
教室の中の〈作家/作者〉
  ―Takumi’s Adventures in Wonderland─

木村功(岡山大学)

 教育(国語教育)の世界における文学とその作品の位置づけは、あくまで教材としてである。小学校・中学校の義務教育段階では、専ら言語教育のための、高等学校では言語文化の教育のための教材である。また、国語教育が必ずしも文学教育と同義でないことは、了解されていると思う。今回の発表では、小学校・中学校段階での国語教育における文学、〈作家/作者〉をめぐる問題について報告したい。
 言語能力育成段階での文学作品は、「読む・書く・聞く・話す」能力の育成と言語事項をインプットしていくための教材であり、作品が内蔵しているイデオロギーについて顧みられることはない。例えば「ごんぎつね」の悲劇的なラストシーンは、作家新美南吉が意図していたであろうディスコミュニケーションを表現していたものではなく、ごんが自らの死と引き換えに、兵十への思いを伝えた感動的なコミュニケーションの物語として指導される。このように発達段階に応じた作品理解が優先される指導の背後には、共感やコミュニケーションの成立を前提とする教育の世界独自のイデオロギーが存在している。作品一つ一つの独自な世界観の理解を通じて、世界の多様性・多義性を学ぶことよりも、共感・友愛・恊働など、社会へ同化を促すための統合的価値を優先する教育界特有の価値観が、教員を通じて指導されるのである。小学校・中学校における文学教材をめぐる、実際の〈作家/作者〉の存在、そして作品の言説と教育の言説がせめぎあう様相を明らかにしてみたい。
〈作家/作者〉はなぜ神話化されるのか
  ─文芸解釈の多様性と相対性─

中村三春(北海道大学)

 《だれが話そうとかまわないではないか》(ベケット)という理念を基軸として「機能としての作者」を分析したフーコーの「作者とは何か?」(一九六九)は、一九九〇年に翻訳が出版されたが(清水徹・豊﨑光一訳、哲学書房)、日本文学研究においてそれに基づく展開は芳しくないようである。
 フーコーは、「機能としての作者は言説の世界を取りかこみ、限定し、分節する法的制度的なシステムに結びつく」とする。この「法的制度的なシステム」の一端を実証的に論じた鈴木登美『語られた自己 日本近代の私小説言説』(二〇〇〇、岩波書店)が話題となった。理論的には、それは一九八三年の絓秀実「『私小説』をこえて」(『メタクリティーク』、国文社)によって先取されている。「私」など所詮は虚構なのだ。しかし、これらの寄与はどれほど一般化しているだろうか。近代文学研究における作家/作者をめぐる理解のパラダイムは、一世紀前からこの方、ほとんど変わらないのではないか。
 この発表の要点は、〈作家神話〉と〈作者神話〉との交錯点において、文学研究の基盤をなす解釈(読解)の多様性と相対性を突き詰めることにある。この〈神話〉とは、(作家個人と作者概念に関する)崇拝的・妄信的な固定観念というほどの意味である。いわゆる文化研究のように社会史的に跡づけるのではなく、ネルソン・グッドマンの「解釈と同一性─作品は世界よりも長生きできるか」(一九八七、菅野盾樹訳、『記号主義』、二〇〇一、みすず書房)の言語哲学的な観点から見直してみる。志賀、太宰、賢治の外、幾人かの代表的近代作家に触れる。

2013年度 関西支部秋季大会特集企画 発表者募集

 すでに周知しておりますように、2013年度関西支部秋季大会は、全国大会と合同のかたちで開催いたします。
 大会二日目午後は、関西支部による研究発表企画をおこないます。内容は、2013年度関西支部春季大会から始まる連続企画「文学研究における〈作家/作者〉とは何か」(全四回)の第2回となる特集です。
 本特集企画への研究発表を募ります。積極的なご応募をお待ちしております。
特集企画 拡張する〈作家/作者〉イメージと実証性のありか
日時会場 2013年10月27日(日)/於 関西大学
募集人数 1~2名
応募資格 日本近代文学会関西支部の会員であること
応募締切 2013年7月20日(土)[当日必着]
 *会報第17号の日本近代文学会研究発表募集のお知らせには、明記してありませんが、応募締切は[当日必着]です。お間違えの無いようにお願いします。
応募要領 発表題目および600字程度の要旨を封書でお送りください。必ず連絡先(住所・電話番号・メールアドレス)を明記してください。
送り先及び問い合わせ先 :
  日本近代文学会関西支部事務局
    →こちらをご参照ください。

【企画趣旨】
「拡張する〈作家/作者〉イメージと実証性のありか」

 「作者の死」(R・バルト)の宣言とともに始まったテクスト論の出現から一定の期間を経て、〈作家/作者〉は、テクストから構成される概念へとその位置を移したことで、以前の役割とは異なった相貌を見せるに至った。以後、文化的研究を通して様々な方法論が試されてきたが、その都度、新たに立ち上がる〈作家/作者〉の存在があったといってよい。一方で、作品解釈の根拠を作家に求める社会的・文化的ニーズは今なお強力に存在するが、そのような磁場にとらわれない、新たな作家研究・実証研究の地平を探るべきではないだろうか。
 たとえば、従来なら作家研究の枠内で捉えられるような肉筆原稿や草稿を用いた研究が、テクスト生成論の観点に基づき行われている。さらに、作家を社会的交流の場と捉え、そのサークルをテクストの基盤と見なす研究もある。サブカルチャーの世界に目を向けてみると、〈作家/作者〉の概念枠を軽やかに乗り越えた例が認められる。あるいは、特定のコミュニティとの関係においては、起源としての作家の存在を感じさせる文学館や文学碑が現在も大きな意味(オーラ)を持ち、作家ゆかりの地を積極的に活用することで、文学受容の場を活性化させる役割を果たすものと見なすことができよう。こうした視点で近代文学史も再点検してみれば、従来の〈作家/作者〉像が修正を迫られる場合もあるのではないだろうか。
 目指すべきは、作家の存在を作品解釈において最終的に到達する目標とするのではなく、作家という指標の向こうに何があるかを明らかにすることだ。これまで行われてきた研究成果をふまえ、今日的な問題意識をあらためて重ね合わせてみたい。本特集では、新たに視野を広げた中で見えてくる〈作家/作者〉のイメージと、作家を中心とする実証研究の価値の再検討をはかり、その方法論を現在の近代文学研究の中に位置づけることを企図する。
 なお、関西支部では、2013年度春季支部大会より連続企画「文学研究における〈作家/作者〉とは何か」(全4回)に取り組んでおり、春季関西支部大会でシンポジウムを行ったところである。本特集はその第2回目にあたるが、これ自体で独立した企画としても成立するものであることをおことわりしておきたい。

2012年度秋季大会のご案内

日時 : 2012.11.3(土)、13:00-17:30
会場 : 立命館大学 衣笠キャンパス 以学館31号教室
      →交通アクセス
      →キャンパスマップ
内容:
・開会の辞       立命館大学文学部長  桂島宣弘

 

1.自由発表

 
・内山完造の作品世界
     ―〈人情味〉の溢れる伝統的な都市空間としての上海―

                  呂 慧君(関西学院大学・大学院研究員)

 
・少年たちの〈郊外〉 ―宮沢賢治と森見登美彦の試みを中心に―
                  森本智子(大手前大学非常勤講師)

 

2.小特集『兵庫近代文学事典』『京都近代文学事典』
刊行記念コロキアム
「地域別文学事典と近代文学研究」


 
 司会 : 黒田大河/笹尾佳代

・基調報告     宗像和重(早稲田大学)

 
・ディスカッサント 『兵庫近代文学事典』編集委員長
           西尾宣明(プール学院大学)
                       

 
・ディスカッサント 『京都近代文学事典』編集委員長
           田中励儀(同志社大学)

 
・閉会の辞          支部長 大橋毅彦 (関西学院大学)      
・臨時総会

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※総会終了後、立命館大学衣笠キャンパス以学館地下食堂にて
 懇親会を開催します。
 会費は5000円(学生・院生3000円)の予定です。
 
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