〔自由発表要旨〕
・三島由紀夫『潮騒』論――初江に着目して――
福田 涼
三島由紀夫『潮騒』(昭和二十九年六月)は、戦後を代表する青春恋愛小説の一つとして知られている。「神話的で原初的なもの」(佐藤秀明)として叙述される新治と初江の恋愛譚は、一面「通俗的」でありつつもなお「美的」(同前)なのとして、広く受け容れられてきたと言えよう。しかし、『潮騒』の語り手が「新治と初江とを対称に扱うのではなく、二人の愛をあくまでも主人公新治に即して形作っている」(梶尾文武)ことは無視できない。語りの焦点が初江の内面に置れる場面は限られており、彼女の詳しい生い立ちや学歴、更には年齢さえも明らかにされない。このような語りの姿勢からは、初江の稚さを強調し、彼女の内面をいわばブラックボックス化しようとする語り手の作為が垣間見えるのではないか。このことを踏まえて、本発表では、これまで考察の対象から除外されがちであった初江に着目して分析すること
で、一篇が本来備えている奥行が、語り手によって殊更に演出される「神話的」な結構の下で隠蔽・朧化されていることを明らかにする。具体的には、細部の叙述に改めて目を配ることで、『潮騒』という小説が、父=家の意志に抵抗する「智恵者」の初江が主体的に伴侶を選択した話として読まれ得るだけの空白を残していることを論証する。
本発表での考察を通して、『潮騒』の新たな読解を提示するとともに、所謂「古典主義」時代における三島の小説作法を再検証する為の端緒を開きたい。
・司馬遼太郎「世に棲む日日」と本当らしさ
森 瑠偉
司馬遼太郎の「世に棲む日日」は、一九六九年二月から一九七〇年一二月まで『週刊朝日』に連載され、前半部は吉田松陰を主人公に、後半部は高杉晋作を主人公に書かれた小説である。松本健一は、司馬遼太郎の小説について四期に分類している。一九六〇年代末から一九七〇年代を「歴史小説」と分類しており、本発表で取り扱う「世に棲む日日」は「歴史小説」に分類される。「歴史を舞台にしたヒーロー小説」と「歴史小説」とを区分する理由について「歴史を事実において捉える度合いが大きくなっている」ことを松本は挙げており、作品を書く際に用いた典拠の記述がどのように作品に描かれているかを分類の論拠としているのである。しかし、実際に作品をよむ読者は、どれほど典拠や歴史的史料の記述を意識して読むだろうか。つまり、司馬遼太郎の小説が「歴史小説」として扱われている要素の一つとして、典拠との関係を問うだけでは松本の分類は不十分であり、その叙述自体の持つ本当らしさについて分析を行う必要がある。
そこで本発表では、「世に棲む日日」の前半部の吉田松陰について書かれた部分を取り上げ、作品で行われる歴史の提示方法について分析を行う。「世に棲む日日」においては、典拠の存在は必ずしも明示されない。玖村敏雄による「吉田松陰傳」(『吉田松陰全集第一巻』所収)や斉藤鹿三郎の『吉田松陰正史』の記述を基に作品は書かれているが、その存在は提示されないのである。一方で、吉田松陰自身が残した書簡や日記類については、その記述によっていたことが記されている。さらに、聞き書きの場合は、その情報源とともに作品内で提示され、「筆者」が行った調査の場合は「筆者」の存在も作品内で示される。つまり、歴史研究を直接参照しない、新たな調査であるような歴史像を提示していると言えよう。このような歴史の提示方法を用いて、「世に棲む日日」では歴史研究と立脚点の異なる本当らしさを確保しているのである。
・目取真俊『面影と連れて』論――美化される被害への抗いについて――
栗山 雄佑
本発表では、目取真俊『面影と連れて』(一九九九年)より、登場する主人公の女性が作中の周囲の人物に解釈されることへの女性の疑義と諦念を中心に、作中の人物や先行研究が行う主人公の美化について考察を行う。作品には、集団性暴力を受け殺害された主人公に残された身体の傷跡、死の直前につぶやく「もういいよ」との言葉が描かれる。この主人公について、池澤夏樹等から主人公を「あはれ」と美化し、現在の沖縄の状況と重ね合わせる読解が提起された。しかし、先行論による主人公を沖縄全体の被害に重ね合わせて語ることには疑問が残る。作品は、一九七五年のひめゆりの塔における現天皇夫妻への火炎瓶投擲を背景とする。この場所より、ひめゆりの乙女と主人公の共通点が指摘できる。新川明は、沖縄戦後におけるひめゆりの乙女の可憐さの強調と被害の美化について警鐘を鳴らした。この指摘を踏まえると、主人公を「切なくて苦しい語り」、「幻想的」と語ることは、ひめゆりの乙女に対する美化表象と同じ轍を踏むことになるのではないか。主人公の「もういいよ」という応答は、自らの意志に反し「沖縄の女性の被害」と解釈されることへの諦念と捉えることが可能ではないだろうか。このように読み替えたとき、作品が沖縄において主人公を含む女性の被害が作中及び現実にて「あはれ」と美化されることに対する疑念と、抗いが不可能という諦念を主人公に抱かせる暴力性の問題を示す作品であると提示したい。
〔連続企画第三回 趣旨〕
光源としての『大阪朝日新聞神戸附録』――神戸モダニズムを問いなおす――
私たち神戸近代文化研究会は、主にモダニズムという視点からなされてきた海港都市神戸の文化についての考察を、一般市民の生活や芸能や大衆演劇などの存在を踏まえ、より多層的な視点から捉えなおすことを目的として現在活動中である(二〇〇九年活動開始、二〇一五年度から科研費基盤C〔代表者・箕野聡子〕)。具体的には、一九二〇年代の『大阪朝日新聞神戸附録』(『大阪朝日新聞神戸版』)の文化記事のPDF化・データベース化を進めており、文学・美術・映画・演劇・芸能・建築・労働運動などのジャンルを立て、文化の背景にあるコンテクストに対して考察を加えている。このような本研究会の動向は日本近代文学会関西支部の連続企画「《異(い)》なる関西」の趣旨とも相通ずると考え、このたび研究会として応募した結果、採択されるに至った。
以下、本研究会のめざしてきたこととともに、これに併せて今回の発題者の立ち位置を記しておく。①新聞を基礎データとすることで、文化人や芸術家個人に集中するのではなく、読者を含めた、時代と地域に根ざした文化の流動する様を捉えること。学校や劇場、あるいは新聞紙上といった大衆の集う場に焦点をあてることで、様々な人的交流の様を浮き上がらせることができる(→主に杣谷英紀の報告)。②神戸を文化の流動の結節点として捉えることで、全国的な文化の流れに関西を位置づけること。関東大震災によって、関東の文学者・画家・演劇関係者など、さまざまな人材が神戸へ流れ込んだ。彼らの多くは、やがて関東に戻り、神戸の文化が今度は東へ逆流することになる(→主に島村健司・高木彬の報告)。③「阪神間文化=モダニズム」という固定した捉え方の枠を取り払うこと。新開地を中心とした劇場や
映画館、演芸場などの情報を網羅した「演芸たより」をデータとして活用することで、大衆文化から神戸の文化を捉えなおすことができる(→主に永井敦子・高木彬の報告)。④メディアの読者への直接的な影響力を計測すること。『神戸附録』は地方版であるが故に、読者に対する働きかけが多く見られた。このような発信が神戸文化の土壌をつくることになった(→主に永井敦子の報告)。以上の四点を鍵に神戸文化について発題することで、関西支部の野心的な連続企画「《異(い)》なる関西」に新たな視座を提起できればと考えている。
・結節点としての労働学校・関西学院
杣谷 英紀
一九二〇年代の『大阪朝日新聞神戸附録』を読むと、さまざまな労働組合の動きが詳しく読み取れる。一九二一年の川崎三菱造船所争議以降、総同盟の分裂など、二〇年代は神戸の労働組合運動が混迷を極めた時代であった。『神戸附録』一九二三年四月一〇日には、「労働学校 神戸聯合会に於て」という見出しが掲げられ、翌年の三月一二日には、「労働者の夜学校 労働文化協会の新事業」という見出しがみえる。前者は総同盟による労働学校の告知であり、講師として山名義鶴、松澤兼人、新明正道、村島帰之などの名前が挙がっている。後者の労働学校は久留弘三の労働文化協会を経営母体としたもので、河上丈太郎や井上増吉、村島帰之等が講師として名を連ねた。
両労働学校の講師には関西学院と関係の深い人物が多くいることに注目すべきであろう。本発表では、労働学校お
よび関西学院と神戸の文化活動との接点に光を当てたい。
・一九二〇年代半ばの『神戸附録』映画情報――新聞連載小説の映画化を中心に――
永井 敦子
一九二〇年代の神戸の映画館は新開地が中心となり、洋画専門の朝日館とキネマ倶楽部、錦座、菊水館など様々な映画館で賑わいを見せていた。各映画館の情報は、『神戸附録』の「演芸たより」欄で確認することが出来、他に「映画界」「映画雑録」欄などもあり、映画鑑賞へと読者を誘う紙面になっている。その中でも特に、大阪朝日新聞と映画の関わりを強調しているのが、本紙連載小説の映画化に関する記事である。上映館の広告を見ると、本紙連載であることが明記され、さらに紹介記事では、新聞購読者に優待券を出すサービスが強調されている。中でも、一九二五年上映の「大地は微笑む」(日活・松竹・東亜キネマ競作)や「人間」(日活)は、一九二三年の大阪朝日新聞懸賞に当選、推薦となり連載されたことから、繰り返し紙面に取り上げられ、広告や宣伝にも更なる工夫が施された。『神戸附録』と映画館が一体となって、読者に映画鑑賞を呼び掛ける様相を跡付けたい。
・「理想住宅」と「煌ける城」――一九二〇年代・神戸の建築空間をめぐって――
高木 彬
一九二〇年代に内務省が主導したプラグマティックな都市政策(耐火・衛生)は、神戸という土地へ馴化する過程で、ある「理想」を胚胎していく。その様相を『大阪朝日新聞神戸附録』紙上で追いたい。たとえば、御影に設計事務所を構えた西村伊作や、阪神急行電鉄の沿線を宅地開発した小林一三は、阪神間の富裕層をクライアントとすることで「理想住宅」を実現した。郊外で培養されたプライベートな「理想」。それはやがて神戸の都心部において縮小再生産され、全国の住宅改良運動や田園都市開発のモデルとして散布される。このように、都市の工学的基盤はイメージ形成のプラットフォームとなる一方で、そのイメージによってモディフィケートされる。とすれば、神戸近郊(「再度山」「六甲村」「緑ケ岳」)への住まい(「西洋館」)探しの顛末を語った稲垣足穂の「煌ける城」(一九二五・一)は、その内部に穿たれた間の質感を露にしたテクストとして読めるだろう。
・前衛芸術と郷土芸術――神戸一九二〇年代文学の後景――
島村 健司
本報告における領分の大枠は、文学と美術のかかわりを検討することである。具体的には、たとえば、稲垣足穂「星を売る店」(一九二三)の冒頭部で描かれるような前衛芸術を踏まえた小説表現の背後に考えられる当時の神戸の状況について、『大阪朝日新聞神戸附録』を手がかりに検討する。一九二〇年代はじめの神戸では、とくに絵画の分野において前衛芸術の息吹が感じられはじめる。それが明らかな広がりをみせたのは、一九二三年に第八回を迎え、「神戸の帝展」ともされた「神戸美術展覧会」であった。「未来派」や「表現派」といった術語で批評された作品の数々を掲示したこの展覧会は開期が延長され、人気を博したようすがうかがえる。このような当時の神戸の動向を前提にしつつ、しかし、前衛芸術を単に前衛芸術として受容することとは別に、郷土芸術として包摂しようとする一面も確認できる。このような側面を明らかにしてみることが本報告の中心になる。
2016年度関西支部秋季大会 自由研究発表募集のお知らせ
日本近代文学関西支部では、2016年度秋季大会での自由研究発表を募集いたします。支部会委員の皆さまの積極的な応募をお待ち申し上げます。
日時会場 2016年10月29日(土)/於 甲南女子大学
応募締切 2016年7月15日(金)必着
応募要領
発表題目及び600字程度の要旨を封書でお送りください。
必ず連絡先(電話番号、メール・アドレスなど)も明記してください。
○発表時間は30分程度です。
○採否については、運営委員会で決定次第お知らせいたします。
※発表に関してご不明の点は事務局までおたずねください。
(お問い合わせ先:kinji@mukogawa-u.ac.jp)
送付先
〒663-8558
兵庫県西宮市池開町6-46
武庫川女子大学文学部 山本欣司研究室内
日本近代文学会関西支部事務局
2016年 日本近代文学会関西支部春期大会 連続企画第二回趣旨・発表要旨・講演者プロフィール
連続企画
「《異(い)》なる関西─1920・30年代を中心として─」
第二回「根(ルーツ)を問う」
趣旨文
連続企画第二回では、人々の出自や故郷が持つ記憶=「根」と、関西との関係を、文学から問いたい。
関西の特定の地域で生まれた、という出自の問題は、時に人々を差別や暴力にさらし、 人々に「根」との対峙を強いてきた。企画の一つの軸は、抗いがたい運命のようにつきまとう、この「根」の問題と葛藤する方法を、文学、あるいは文字表現はいかに用意したのか、あるいはその葛藤をどのように表現してきたのかを考えることにある。
また、関西には、生まれた場所から離れ流入してきた人々が集い、自分たちの生きる場所を作り上げた、そのような空間が散在している。自らを〈異〉なる者として規定する視線にさらされながら、そこにいる人々は、文学によって、どのように自分たちの場所を確保したのか。この問いが、もう一つの軸となっている。それは言い換えれば、「根」から切り離された空間において共同性を確保する、という営為と、文学がいかに関与したのかを問うことでもある。
以上の問題を、「《異》なる関西」という標題で括る暴力性そのものを再検証しうるような議論の場としつつ、場所と人とに積層する記憶を掘り起こし、そこで生じた文学と、人々の生のあり方を凝視すること。このような狙いから、連続企画第二回を開催したい。
発表要旨
金達寿における関西
―〈神功皇后の三韓征伐〉と「行基の時代」
廣瀬 陽一
在日朝鮮人作家でのち古代史研究家となった金達寿(一九二〇~九七)は、一九三〇年に渡日して以後、神奈川県や東京都内で暮らし、関西に生活の根を下ろすことはなかった。だが彼の知的活動に目を転じると、関西ほど関係の深い地域はない。彼と関西との出会いは小学五年生の時に授業で教えられた〈神功皇后の三韓征伐〉に遡る。多くの朝鮮人と同様、当時の彼も民族的劣等感を抱いて苦悩したが、やがてこの劣等感が客観的事実ではなく、植民地生活の中で〈三韓征伐〉的発想を内面化した結果と認識するようになった。そこで彼は日本の敗戦=解放後、まず文学活動を通じて自分の内なる〈関西〉と闘争した。そして七〇年頃から徐々に活動の舞台を古代史に移し、そこでも〈三韓征伐〉などで表現された日本と朝鮮、日本人と朝鮮人との関係を、いかにして人間的なものにするかを探究した。彼の最後の小説「行基の時代」(七八~八一)は、その可能性を追究した果てに書かれたものに他ならない。
このように関西は、金達寿にとって知的活動の原点であると同時に、文学活動の終着点となった場所でもある。むろん両者の間で〈関西〉が意味するものは異なる。原点としての〈関西〉は〈三韓征伐〉的発想の中で表象される権力の中心であり、終着点としての〈関西〉はその中で消されたもう一つの姿である。では彼はいかにしてもう一つの〈関西〉を見出していったのか。本発表ではこの過程に焦点をあてて述べたい。
織田作之助と川島雄三
酒井 隆史
作家織田作之助と映画監督川島雄三についてお話をさせていただきたいとおもいます。この二人は、関西と東北という出身地の大きな違いにもかかわらず、みじかいあいだとはいえ、深いまじわりを交わし、たがいの創作、とりわけ川島雄三の映像作品に消しがたい刻印をもたらしました。大谷晃一さんは、この二人についてみごとな評を残しています。「川島は大正七年に、青森県の下北半島にある田名部(たなぶ)町の商家に生まれた。現、むつ市。先祖は近江商人という。幼時に小児麻痺をわずらい、足が不自由だった。深刻なコンプレックスを内に秘めながら、表面はむしろ陽気で軽佻だった。寂しがりやの照れ屋である。人のことを気にして調子を合わせた。昔気質の人情家で、古風な立身出世への憧れがあった。自虐的な汚らしさの中に、人の悲しみを表現しようとした。驚くべきことである。それは、作之助そっくりだった。たちまち、心の通じ合う友人になる」。このような人間的共鳴をきっかけにして、織田作之助の死後、川島雄三は、みずからに織田作之助のもたらした刻印とはなんだったのかを測定するかのように、いくつかのこの作家に由来する大阪を舞台にした作品を撮影しつづけます。それを追っていきながら、ここでは、川島雄三によって折りひらかれた織田作之助の大阪について考えてみたいとおもいます。
講演
『京都』について
黒川 創
プロフィール
作家・評論家。一九六一年生まれ。京都市出身。同志社大学文学部卒業。「思想の科学」を舞台に評論活動を展開するとともに、一九九一年「若冲の眼」で小説家としてデビュー。以後『もどろき』(二〇〇一)、『イカロスの森』(二〇〇二)、『明るい夜』(二〇〇五)、『かもめの日』(二〇〇八 読売文学賞受賞)、『いつか、この世界で起こっていたこと』(二〇一二)、『暗殺者たち』(二〇一三)などの小説を次々に発表。芥川賞、三島賞等の候補にも数次にわたり推挙される。
小説の他、『〈外地〉の日本語文学選』全三巻(一九九六)、『鴎外と漱石のあいだで―日本語の文学が生まれる場所』(二〇一五)など外地文学に関する精力的な評論・創作活動を展開し、東アジア全域を視野に入れた日本語文学史の再検討を試みている。また『きれいな風貌 西村伊作伝』(二〇一一)や、大逆事件を扱った『国境〔完全版〕』(二〇一三 伊藤整文学賞受賞)など、関西の文化風土に対する著作も多数発表している。
今回は京都の被差別部落を舞台とした小説『京都』(二〇一四 毎日出版文化賞受賞)を中心に、「《異》なる関西」の相貌についてご講演いただく予定である。
◆『京都』(二〇一四年一〇月三一日 新潮社 一九四四円+税) ISBN: 978-4-10-444407-6
2016年 日本近代文学会関西支部春期大会ご案内
・日時:六月四日(土)午後一時より
・場所:花園大学 無聖館ホール五階
→交通アクセス&キャンパスマップ
・内容
開会の辞:花園大学文学部長 松田 隆行
連続企画:
「《異(い)》なる関西─1920・30年代を中心として─」
第二回「根(ルーツ)を問う」(今回の趣旨と発表要旨はこちら)
趣旨説明、司会
天野知幸
福岡弘彬
発表
金達寿における関西―〈神功皇后の三韓征伐〉と「行基の時代」
廣瀬 陽一
織田作之助と川島雄三
酒井 隆史
講演
『京都』について
黒川 創
質疑応答
閉会の辞:支部長 浅子 逸男
総会
※ 総会終了後、花園大学「ふるーる」にて懇親会を開催します。
会費は五〇〇〇円(学生・院生三〇〇〇円)の予定です。
2016年度秋季大会・連続企画の募集案内
連続企画(第3回) シンポジウム 「《異(い)》なる関西─1920・30年代を中心として─」
すでに総会・「会報」等で予告しておりますように、標記連続企画の第3回は、下記の趣旨に基づいた企画案を会員から募集しています。
2016年4月15日(金)を締切としていますので、企画趣旨、発表者、論題等の概要を添え、事務局宛にメールまたは郵送(締切必着)でお申し込みください。
趣旨
本企画は、関西の文芸文化の中でこれまで必ずしも光が当てられてこなかった対象――人・風土・メディアなど――を新たに考察・評価する試みである。ただ、本企画は、埋もれた対象の発掘作業に終始するものではない。その狙いには、自らの居るこの「関西」という場所自体を批評的に問い直し、既成の史的枠組みや知識で捉えられてきた関西における文芸文化の姿をも再考することを含んでいる。これまでの認識に揺さぶりをかけるような「《異(い)》なる関西」を探求することで、新しい文学観や地勢図が開かれるかもしれない。
その検討に際し、ひとまず中心とするのは、1920・30年代である。この時期、大規模な経済的、社会的変動を背景としてモダン文化が勃興したことはよく知られているが、関西ではどのような動きがあったのだろうか。たとえば、佐藤春夫や稲垣足穂と関係の深い神戸の詩人、石野重道。彼はどのようなメディアに自身の作品を発表し、また、いかなるネットワークの中で活動していたのか。そして、彼(とその周囲の表現者たち)を創作へと駆り立てたエネルギーとは、いかなる強度と広がりを持つものであったのか。――一つの事象を核として明らかにされていく、まだ知られていない関西文芸文化の側面は、他にも多くあるだろう。
また、この時代の前後に、その検討対象を準備/継承/更新したものがあるのならば、それも議論の範囲に含めてもよいだろう。「関西」を軸に、既成の枠組みを問い直すダイナミズムやドラマを掬い上げることで、「関西」自体が内と外との双方に対して、その《異(い)》なる相貌を現すことを企図している。
支部内外からの様々なアプローチによって、新しい知見が議論を通して得られることを期待している。
2015年 日本近代文学会関西支部秋季大会 シンポジウム趣旨・発表要旨
連続企画(第一回) シンポジウム 「《異(い)》なる関西─1920・30年代を中心として─」
趣旨
本企画は、関西の文芸文化の中でこれまで必ずしも光が当てられてこなかった対象――人・風土・メディアなど――を新たに考察・評価する試みである。ただ、本企画は、埋もれた対象の発掘作業に終始するものではない。その狙いには、自らの居るこの「関西」という場所自体を批評的に問い直し、既成の史的枠組みや知識で捉えられてきた関西における文芸文化の姿をも再考することを含んでいる。これまでの認識に揺さぶりをかけるような「《異(い)》なる関西」を探求することで、新しい文学観や地勢図が開かれるかもしれない。
その検討に際し、ひとまず中心とするのは、1920・30年代である。この時期、大規模な経済的、社会的変動を背景としてモダン文化が勃興したことはよく知られているが、関西ではどのような動きがあったのだろうか。たとえば、佐藤春夫や稲垣足穂と関係の深い神戸の詩人、石野重道。彼はどのようなメディアに自身の作品を発表し、また、いかなるネットワークの中で活動していたのか。そして、彼(とその周囲の表現者たち)を創作へと駆り立てたエネルギーとは、いかなる強度と広がりを持つものであったのか。――一つの事象を核として明らかにされていく、まだ知られていない関西文芸文化の側面は、他にも多くあるだろう。
また、この時代の前後に、その検討対象を準備/継承/更新したものがあるのならば、それも議論の範囲に含めてもよいだろう。「関西」を軸に、既成の枠組みを問い直すダイナミズムやドラマを掬い上げることで、「関西」自体が内と外との双方に対して、その《異(い)》なる相貌を現すことを企図している。
支部内外からの様々なアプローチによって、新しい知見が議論を通して得られることを期待している。
発表要旨
・一九二〇年代~三〇年代の大阪文化・文学研究―『大阪時事新報〈文芸欄〉』を視座として―
増田 周子
大阪市は、大正一四(一九二五)年四月一日、東西南北の四区に周辺地域を合併し、東京市を抜き、世界第六、日本第一の巨大都市となった。「大大阪」時代の到来である。大正一二(一九二三)年の関東大震災で東京が大打撃を受け、谷崎潤一郎ら有力作家が関西に移住し、関西にとっては文化発展の絶好のチャンスであった。「大大阪」時代前後は、カフェサロンに集まった人々が担った文化活動も発展し、活気づいた大阪の様子が見られ華やかである。一方、昭和金融恐慌の時期とも重なり、失業者も増え、厳しい面も見られる。すなわち、モダニズム文学の隆盛の一方で、社会主義文学も発展していく状況下なのである。これら、「大大阪」時代周辺の大阪文化や文学―人・風土・メディア─とはどのようなものであり、作家達を創作へと駆り立てたエネルギーとは、いかなる文化強度に支えられていたのであろうか。本発表では、これまでほとんど取り上げられてこなかった『大阪時事新報〈文芸欄〉』をもとに、その他のメディアでの文化活動も視野に入れ、広く大阪文化やメディア作家を見渡し、興味深い点を拾い上げて考察していきたい。当時の大阪文化を見直すことで「《異》なる関西」の諸相を探求することを目的とする。
・昭和初期・神戸の文学青年、及川英雄――文学における中央と地方
大東 和重
近代日本において「文壇」と呼ばれるものは東京にあった。しかし地方都市にも、規模は異なるが文学愛好者たちのつながりがあり、文学活動が行われていた。ことに高等教育機関の整備が進み、同人雑誌が盛んに刊行される一九二〇年代以降、中央からの刺激を受けつつ、各地で無数の文学青年たちが活動した。
本報告では、昭和初期の神戸で、公務員として働く傍ら文学への情熱を燃やし、東京の雑誌や同人雑誌にも関わった、及川英雄(一九〇七─七五年)の活動の輪郭を描きつつ、関西の港町にあって創作することの意味を考えてみたい。及川英雄は関西学院大学神学部を中退後、同人雑誌などで文筆活動に励むも、一貫して神戸に住み、衛生・福祉行政を中心に県庁勤務を四十年間続けた。戦後は神戸の文化人サークル「半どんの会」の世話役として兵庫文化界の中心人物の一人となった。
昭和初期の神戸の文学については、林喜芳『神戸文芸雑兵物語』や足立巻一『親友記』など当事者の回想以外に、宮崎修二朗の労作『神戸文学史夜話』、高橋輝次の『関西古本探検』など一連の古本エッセイ、さらに詩人の季村敏夫による、無名であることにこだわった渾身の考証、『山上の蜘蛛』『窓の微風』がある。これら、神戸の詩人や作家たちへの深い愛情と哀悼に満ちた書物に導かれつつ、昭和初期・神戸の文学の一端を、及川を通して眺めてみたい。
・熊野新宮─「大逆事件」─春夫から健次へ
辻本 雄一
紀伊半島の先端近く、ひとつの町・熊野新宮の近代の歩みが、「日本近代」の縮図として映らないか─そんな「大風呂敷」。
開明的、進取の精神が、反骨の精神と相まって、人々を捉える、そこに「大逆事件」の衝撃。外から訪れてくる人たちによって談論風発した町が、「恐懼せる町」に変貌、ふるさとから上京した人たちは、モダニズムと出合う、「大逆事件」の翳りをどこかで引き摺りながら。佐藤春夫から中上健次へ、「近代の文学」といわれた時代を駆け抜けたこの町出身の文学者たち。
「中上文学」の登場は、あらためて「熊野」と言う場を、普遍的な場として意識させ、内在的に「熊野」の磁場を問いかけることになった。「中上文学」の課題「路地解体」は、わが国の国土解体の象徴では。
一九二〇―三〇年代というかたちで、絞りきれないかもしれないが、断片的、大まかすぎると自覚しつつ、幾つかのエポックを辿ってみたい。「大風呂敷」に似合わない些末なことに終始するのではないかとの危惧を抱きながら。
2015年 日本近代文学会関西支部秋季大会ご案内
・日時:11月7日(土) 午後1時より
・場所:大阪大学豊中キャンパス 文法経講義棟 文41
→ 交通アクセス&キャンパスマップ
・内容
開会の辞
大阪大学大学院文学研究科教授 出原 隆俊
シンポジウム
「《異(い)》なる関西─1920・30年代を中心として─」
(連続企画第一回;本企画の趣旨と発表要旨はこちら)
趣旨説明、司会
高木 彬
山田 哲久
報告
一九二〇年代~三〇年代の大阪文化・文学研究―『大阪時事新報〈文芸欄〉』を視座として―
増田 周子
昭和初期・神戸の文学青年、及川英雄―文学における中央と地方
大東 和重
熊野新宮─「大逆事件」─春夫から健次へ
辻本 雄一
ディスカッサント 山口 直孝
閉会の辞
日本近代文学会関西支部長 浅子 逸男
総会
※ 総会終了後、大阪大学カフェ&レストラン「宙 (sora)」にて懇親会を開催します。
会費は五〇〇〇円(学生・院生三〇〇〇円)の予定です。
2015年度 日本近代文学会関西支部春季大会発表要旨
自由発表
■徳富蘆花「灰燼」と<西郷隆盛>
西南戦争中からジャーナリズムによって喧伝された西郷隆盛らの戦闘は、錦絵や絵本によって物語化され、西郷の死後も「西郷星」や生存説が度々噂になり、正三位も追贈された。このような〈西郷隆盛〉の世論人気と社会的復権は、明治三一年の上野公園西郷隆盛像に結実することになった。しかし、犬を連れた兵児帯姿のこの銅像は、小騒動を引き起こすことになる。
本発表では、上野西郷像落成前後の雑誌新聞言説を確認し、その上で徳冨蘆花「灰燼」(明治三三年三月)において、「疫病神」「福神様」と変転する〈西郷〉の評価に注目する。「灰燼」では、西南戦争に西郷側として従軍した上田茂が、家名を楯に自刃を迫られた後、「村の悪感」が上田家に向けられ、その際の「言葉」「囁」は、「幸福な者」「嫌な者」と変転する。それは、作品内での〈西郷〉への評価に重ね合わせられており、「叛逆者」であり「英雄」でもあるという〈西郷〉の二面性が巧みに用いられているのである。
ベストセラーとなった作品集『自然と人生』の巻頭作としてある程度の評価を得ている「灰燼」ではあるが、本発表では初出の『国民新聞』版を参照する。実兄蘇峰が帝国主義・膨張主義へと「変節」し、強烈な批判を受けながら自説を展開していく『国民新聞』上で、西郷びいきの蘆花が、新聞小説としての「灰燼」をどのように構成していったのか。これまであまり注意されていなかった蘆花のメディア意識と、民友社作家としての文学的営為を探りたい。
■『草枕』
―オフェリヤの「合掌」を中心に―
『草枕』におけるJ・E・ミレイ「オフィーリア」(一八五一~一八五二)の「合掌」については、「漱石は『草枕』のテクストに、ミレーの原画にはなかった祈りの手を作為的に持ちこんだのだろうか。あるいは、ただの記憶の誤りにすぎなかったのだろうか」(前田愛)「画工であるにもかかわらず、そんな不注意をおかす「余」」(中山和子)とも言われてきた。しかし『草枕』での「合掌」は、西洋キリスト教美術におけるオランスの翻訳と思われ、漱石はミレイ「オフィーリア」の原画にある、魂の救済のポーズにも注意を払っていたことが窺える。
溺死する直前に「合掌」(オランス)して川を流れるミレイ「オフィーリア」に対し、画工は「ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以て、一つ風流な土左衛門をかいて見たい」として、苦しみなく楽しげに「往生」する那美を画題に選ぶ。『草枕』では様々な東西の事物が対比されるが、ミレイ「オフィーリア」と画工の構想する画題との間にも、キリスト教的要素と仏教的要素の対比がなされていると思われる。他にも、『草枕』に登場する水死の女性のイメージには「功徳」や「南無阿弥陀仏」など仏教的な救いのイメージが絡み合っており、「ただ美しい感じが読者の頭に残りさえすればよい」として書かれた『草枕』ではあるが、その背後には、漱石の無意識や強迫観念のなかにある生死観のテーマも潜んでいるのではないかと推測される。
■「文章世界」の小説指導
―田山花袋編『二十二篇』に見るその傾向―
本発表は、田山花袋研究からの展開として、博文館投書雑誌「文章世界」における小説の指導形態について考察するものである。とりわけ、明治四十三年一月に花袋選として刊行された、投書傑作選『二十二篇』を中心に論じたい。
『二十二篇』には、水野仙子をはじめとして「文章世界」常連投書家、計十三名二十二作品が収録された。元より、「文章世界」上で花袋が選者をしていた「懸賞小説」欄の受賞作を選りすぐったものだ。すなわち、花袋の求める文学青年像に基づき選抜されている。作品は、①ローカルな事象の「観察」「描写」、②生活の倦みや寂寞を主題とする、③感傷の排除、という事項を含有しており、そこに花袋が育成しようとした作家像が見てとれる。
花袋の小説選評は、彼自身の主張の変遷と、本質的な趣味に左右されながらも、投書家に一定の傾向を強いることとなった。彼ら彼女らの〈書く〉行為に、自己慰藉以上の意義を与える一方で、それは作品内容を限定していくこととなる。一方、その指導の絶対性を支えたのは、作家が「先生」すなわち教育者として見做されたことだろう。小説の創作法を矯正し、折々には地方に生活する彼ら彼女らの生を肯定する、そのような言説にこそ、「文章世界」の誘引力はあったと思われる。
誌上の言説は、編集者前田晁をして「主義の宣伝と使徒の養成」と言わしめた。その意義と弊害を具体化するとともに、埋もれていった「投書家」たちの存在を明らかにもしていきたい。
(『二十二篇』は現在、国立国会図書館ウェブサイト「近代デジタルライブラリー」から閲覧が可能である。)
■太宰治「きりぎりす」の一考察
―「背骨にしま」われた「私」の葛藤―
太宰治「きりぎりす」は、昭和十五(一九四〇)年十一月一日発行の「新潮」に発表された。「おわかれ致します。」の一文で始まるこの小説は、画家で夫の「あなた」との結婚生活を振り返る「私」の、女性一人称語りで描かれている。中でも「私」が、「小さいきりぎりす」を「背骨にしまって生きて行こう」とする最後の場面は印象深い。
「きりぎりす」は、同時代から現在まで、〈俗〉と〈反俗〉をめぐって議論がなされ、「私」は常に〈反俗〉の役割を担ってきた。本発表ではこの構図を打ち破るべく、〈読者〉を問題視する。具体的には、①太宰らしき人物を視点人物とする癖、②男性中心主義に基づいて読む癖、読者のこれらの癖が、「あなた」の視点で語りを読解する原因になっていることを述べる。しかし、「きりぎりす」が女性一人称語りである以上、「私」の語りは、本来「私」の視点から捉えるべきである。こうした観点から語りを検討すると、存在意義を認めてほしい思いと、自立が難しい現実との間に生じた「私」の葛藤が明らかになる。「私」はこの葛藤を「背骨にしまっ」た。つまり、語りの目的は「私」の気持ちの整理にあり、決して〈反俗〉にあるのではない。
本発表では、この読みを丁寧な分析のもとに実証し、「きりぎりす」の新解釈だけでなく、自らの先入観に無自覚な読者を明らかにする。これらの指摘は、太宰の女性語り作品を読む際の陥穽に言及することにもなると考えている。
■中島敦《南島譚》考
―〈病〉と〈南洋〉―
中島敦は自身の〈南洋行〉体験(昭和十六年六月~昭和十七年三月)のあと、昭和十七年十二月に〈南洋もの〉として《南島譚》との総題のもとで「幸福」「夫婦」「鶏」の三篇を発表している。
本発表では、まず、当時の〈南洋〉における〈幸福〉概念が、近代的「教育」と近代的「医学」によって、その「原始的なる」生活を改善すること、つまり「島民教化」に結びついていた点を明らかにする。たとえば、後に中島自身も編纂に関わった「南洋群島国語読本」の第二次編纂根本方針にも「一に国語を学習することによつて、島民の幸福を増進することを第一義と致しました」と明記される。また、矢内原忠雄『南洋群島の研究』には、「日本時代に於ては、医療機関の増加は普通教育機関の増加と相併ぶ二大文化的施設」とある。ここから南洋庁が、「教育」と並ぶ「島民教化」の方法として「医療」を重視した方針が見受けられよう。
そのうえで、中島の「幸福」「夫婦」「鶏」の三篇に〈病〉というキーワードが共通していると指摘したい。「幸福」には「文化」のもたらした「悪い病」に罹った「男」が、「夫婦」には「悪い病のために鼻が半分落ちかかつてゐたが、大変広い芋田を持つた・村で二番目の物持」である「男」が、「鶏」には「喉頭癌とか喉頭結核とか」に罹った「マルクープ老人」が描かれる。これらの〈病〉の描かれ方を通して、中島が〈南洋〉での〈幸福〉をどのように作品に入れ込んだのか、考察を深めていきたい。