自由発表
■徳富蘆花「灰燼」と<西郷隆盛>
西南戦争中からジャーナリズムによって喧伝された西郷隆盛らの戦闘は、錦絵や絵本によって物語化され、西郷の死後も「西郷星」や生存説が度々噂になり、正三位も追贈された。このような〈西郷隆盛〉の世論人気と社会的復権は、明治三一年の上野公園西郷隆盛像に結実することになった。しかし、犬を連れた兵児帯姿のこの銅像は、小騒動を引き起こすことになる。
本発表では、上野西郷像落成前後の雑誌新聞言説を確認し、その上で徳冨蘆花「灰燼」(明治三三年三月)において、「疫病神」「福神様」と変転する〈西郷〉の評価に注目する。「灰燼」では、西南戦争に西郷側として従軍した上田茂が、家名を楯に自刃を迫られた後、「村の悪感」が上田家に向けられ、その際の「言葉」「囁」は、「幸福な者」「嫌な者」と変転する。それは、作品内での〈西郷〉への評価に重ね合わせられており、「叛逆者」であり「英雄」でもあるという〈西郷〉の二面性が巧みに用いられているのである。
ベストセラーとなった作品集『自然と人生』の巻頭作としてある程度の評価を得ている「灰燼」ではあるが、本発表では初出の『国民新聞』版を参照する。実兄蘇峰が帝国主義・膨張主義へと「変節」し、強烈な批判を受けながら自説を展開していく『国民新聞』上で、西郷びいきの蘆花が、新聞小説としての「灰燼」をどのように構成していったのか。これまであまり注意されていなかった蘆花のメディア意識と、民友社作家としての文学的営為を探りたい。
■『草枕』
―オフェリヤの「合掌」を中心に―
『草枕』におけるJ・E・ミレイ「オフィーリア」(一八五一~一八五二)の「合掌」については、「漱石は『草枕』のテクストに、ミレーの原画にはなかった祈りの手を作為的に持ちこんだのだろうか。あるいは、ただの記憶の誤りにすぎなかったのだろうか」(前田愛)「画工であるにもかかわらず、そんな不注意をおかす「余」」(中山和子)とも言われてきた。しかし『草枕』での「合掌」は、西洋キリスト教美術におけるオランスの翻訳と思われ、漱石はミレイ「オフィーリア」の原画にある、魂の救済のポーズにも注意を払っていたことが窺える。
溺死する直前に「合掌」(オランス)して川を流れるミレイ「オフィーリア」に対し、画工は「ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以て、一つ風流な土左衛門をかいて見たい」として、苦しみなく楽しげに「往生」する那美を画題に選ぶ。『草枕』では様々な東西の事物が対比されるが、ミレイ「オフィーリア」と画工の構想する画題との間にも、キリスト教的要素と仏教的要素の対比がなされていると思われる。他にも、『草枕』に登場する水死の女性のイメージには「功徳」や「南無阿弥陀仏」など仏教的な救いのイメージが絡み合っており、「ただ美しい感じが読者の頭に残りさえすればよい」として書かれた『草枕』ではあるが、その背後には、漱石の無意識や強迫観念のなかにある生死観のテーマも潜んでいるのではないかと推測される。
■「文章世界」の小説指導
―田山花袋編『二十二篇』に見るその傾向―
本発表は、田山花袋研究からの展開として、博文館投書雑誌「文章世界」における小説の指導形態について考察するものである。とりわけ、明治四十三年一月に花袋選として刊行された、投書傑作選『二十二篇』を中心に論じたい。
『二十二篇』には、水野仙子をはじめとして「文章世界」常連投書家、計十三名二十二作品が収録された。元より、「文章世界」上で花袋が選者をしていた「懸賞小説」欄の受賞作を選りすぐったものだ。すなわち、花袋の求める文学青年像に基づき選抜されている。作品は、①ローカルな事象の「観察」「描写」、②生活の倦みや寂寞を主題とする、③感傷の排除、という事項を含有しており、そこに花袋が育成しようとした作家像が見てとれる。
花袋の小説選評は、彼自身の主張の変遷と、本質的な趣味に左右されながらも、投書家に一定の傾向を強いることとなった。彼ら彼女らの〈書く〉行為に、自己慰藉以上の意義を与える一方で、それは作品内容を限定していくこととなる。一方、その指導の絶対性を支えたのは、作家が「先生」すなわち教育者として見做されたことだろう。小説の創作法を矯正し、折々には地方に生活する彼ら彼女らの生を肯定する、そのような言説にこそ、「文章世界」の誘引力はあったと思われる。
誌上の言説は、編集者前田晁をして「主義の宣伝と使徒の養成」と言わしめた。その意義と弊害を具体化するとともに、埋もれていった「投書家」たちの存在を明らかにもしていきたい。
(『二十二篇』は現在、国立国会図書館ウェブサイト「近代デジタルライブラリー」から閲覧が可能である。)
■太宰治「きりぎりす」の一考察
―「背骨にしま」われた「私」の葛藤―
太宰治「きりぎりす」は、昭和十五(一九四〇)年十一月一日発行の「新潮」に発表された。「おわかれ致します。」の一文で始まるこの小説は、画家で夫の「あなた」との結婚生活を振り返る「私」の、女性一人称語りで描かれている。中でも「私」が、「小さいきりぎりす」を「背骨にしまって生きて行こう」とする最後の場面は印象深い。
「きりぎりす」は、同時代から現在まで、〈俗〉と〈反俗〉をめぐって議論がなされ、「私」は常に〈反俗〉の役割を担ってきた。本発表ではこの構図を打ち破るべく、〈読者〉を問題視する。具体的には、①太宰らしき人物を視点人物とする癖、②男性中心主義に基づいて読む癖、読者のこれらの癖が、「あなた」の視点で語りを読解する原因になっていることを述べる。しかし、「きりぎりす」が女性一人称語りである以上、「私」の語りは、本来「私」の視点から捉えるべきである。こうした観点から語りを検討すると、存在意義を認めてほしい思いと、自立が難しい現実との間に生じた「私」の葛藤が明らかになる。「私」はこの葛藤を「背骨にしまっ」た。つまり、語りの目的は「私」の気持ちの整理にあり、決して〈反俗〉にあるのではない。
本発表では、この読みを丁寧な分析のもとに実証し、「きりぎりす」の新解釈だけでなく、自らの先入観に無自覚な読者を明らかにする。これらの指摘は、太宰の女性語り作品を読む際の陥穽に言及することにもなると考えている。
■中島敦《南島譚》考
―〈病〉と〈南洋〉―
中島敦は自身の〈南洋行〉体験(昭和十六年六月~昭和十七年三月)のあと、昭和十七年十二月に〈南洋もの〉として《南島譚》との総題のもとで「幸福」「夫婦」「鶏」の三篇を発表している。
本発表では、まず、当時の〈南洋〉における〈幸福〉概念が、近代的「教育」と近代的「医学」によって、その「原始的なる」生活を改善すること、つまり「島民教化」に結びついていた点を明らかにする。たとえば、後に中島自身も編纂に関わった「南洋群島国語読本」の第二次編纂根本方針にも「一に国語を学習することによつて、島民の幸福を増進することを第一義と致しました」と明記される。また、矢内原忠雄『南洋群島の研究』には、「日本時代に於ては、医療機関の増加は普通教育機関の増加と相併ぶ二大文化的施設」とある。ここから南洋庁が、「教育」と並ぶ「島民教化」の方法として「医療」を重視した方針が見受けられよう。
そのうえで、中島の「幸福」「夫婦」「鶏」の三篇に〈病〉というキーワードが共通していると指摘したい。「幸福」には「文化」のもたらした「悪い病」に罹った「男」が、「夫婦」には「悪い病のために鼻が半分落ちかかつてゐたが、大変広い芋田を持つた・村で二番目の物持」である「男」が、「鶏」には「喉頭癌とか喉頭結核とか」に罹った「マルクープ老人」が描かれる。これらの〈病〉の描かれ方を通して、中島が〈南洋〉での〈幸福〉をどのように作品に入れ込んだのか、考察を深めていきたい。