2015年度 日本近代文学会関西支部春季大会発表要旨

自由発表
徳富蘆花「灰燼」と<西郷隆盛>

平石 岳

 西南戦争中からジャーナリズムによって喧伝された西郷隆盛らの戦闘は、錦絵や絵本によって物語化され、西郷の死後も「西郷星」や生存説が度々噂になり、正三位も追贈された。このような〈西郷隆盛〉の世論人気と社会的復権は、明治三一年の上野公園西郷隆盛像に結実することになった。しかし、犬を連れた兵児帯姿のこの銅像は、小騒動を引き起こすことになる。
 本発表では、上野西郷像落成前後の雑誌新聞言説を確認し、その上で徳冨蘆花「灰燼」(明治三三年三月)において、「疫病神」「福神様」と変転する〈西郷〉の評価に注目する。「灰燼」では、西南戦争に西郷側として従軍した上田茂が、家名を楯に自刃を迫られた後、「村の悪感」が上田家に向けられ、その際の「言葉」「囁」は、「幸福な者」「嫌な者」と変転する。それは、作品内での〈西郷〉への評価に重ね合わせられており、「叛逆者」であり「英雄」でもあるという〈西郷〉の二面性が巧みに用いられているのである。
 ベストセラーとなった作品集『自然と人生』の巻頭作としてある程度の評価を得ている「灰燼」ではあるが、本発表では初出の『国民新聞』版を参照する。実兄蘇峰が帝国主義・膨張主義へと「変節」し、強烈な批判を受けながら自説を展開していく『国民新聞』上で、西郷びいきの蘆花が、新聞小説としての「灰燼」をどのように構成していったのか。これまであまり注意されていなかった蘆花のメディア意識と、民友社作家としての文学的営為を探りたい。
『草枕』
     ―オフェリヤの「合掌」を中心に―

原田 のぞみ

 『草枕』におけるJ・E・ミレイ「オフィーリア」(一八五一~一八五二)の「合掌」については、「漱石は『草枕』のテクストに、ミレーの原画にはなかった祈りの手を作為的に持ちこんだのだろうか。あるいは、ただの記憶の誤りにすぎなかったのだろうか」(前田愛)「画工であるにもかかわらず、そんな不注意をおかす「余」」(中山和子)とも言われてきた。しかし『草枕』での「合掌」は、西洋キリスト教美術におけるオランスの翻訳と思われ、漱石はミレイ「オフィーリア」の原画にある、魂の救済のポーズにも注意を払っていたことが窺える。
 溺死する直前に「合掌」(オランス)して川を流れるミレイ「オフィーリア」に対し、画工は「ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以て、一つ風流な土左衛門をかいて見たい」として、苦しみなく楽しげに「往生」する那美を画題に選ぶ。『草枕』では様々な東西の事物が対比されるが、ミレイ「オフィーリア」と画工の構想する画題との間にも、キリスト教的要素と仏教的要素の対比がなされていると思われる。他にも、『草枕』に登場する水死の女性のイメージには「功徳」や「南無阿弥陀仏」など仏教的な救いのイメージが絡み合っており、「ただ美しい感じが読者の頭に残りさえすればよい」として書かれた『草枕』ではあるが、その背後には、漱石の無意識や強迫観念のなかにある生死観のテーマも潜んでいるのではないかと推測される。
「文章世界」の小説指導
     ―田山花袋編『二十二篇』に見るその傾向―

山本 歩

 本発表は、田山花袋研究からの展開として、博文館投書雑誌「文章世界」における小説の指導形態について考察するものである。とりわけ、明治四十三年一月に花袋選として刊行された、投書傑作選『二十二篇』を中心に論じたい。
 『二十二篇』には、水野仙子をはじめとして「文章世界」常連投書家、計十三名二十二作品が収録された。元より、「文章世界」上で花袋が選者をしていた「懸賞小説」欄の受賞作を選りすぐったものだ。すなわち、花袋の求める文学青年像に基づき選抜されている。作品は、①ローカルな事象の「観察」「描写」、②生活の倦みや寂寞を主題とする、③感傷の排除、という事項を含有しており、そこに花袋が育成しようとした作家像が見てとれる。
 花袋の小説選評は、彼自身の主張の変遷と、本質的な趣味に左右されながらも、投書家に一定の傾向を強いることとなった。彼ら彼女らの〈書く〉行為に、自己慰藉以上の意義を与える一方で、それは作品内容を限定していくこととなる。一方、その指導の絶対性を支えたのは、作家が「先生」すなわち教育者として見做されたことだろう。小説の創作法を矯正し、折々には地方に生活する彼ら彼女らの生を肯定する、そのような言説にこそ、「文章世界」の誘引力はあったと思われる。
 誌上の言説は、編集者前田晁をして「主義の宣伝と使徒の養成」と言わしめた。その意義と弊害を具体化するとともに、埋もれていった「投書家」たちの存在を明らかにもしていきたい。
(『二十二篇』は現在、国立国会図書館ウェブサイト「近代デジタルライブラリー」から閲覧が可能である。)
太宰治「きりぎりす」の一考察
     ―「背骨にしま」われた「私」の葛藤―

山田 佳奈

 太宰治「きりぎりす」は、昭和十五(一九四〇)年十一月一日発行の「新潮」に発表された。「おわかれ致します。」の一文で始まるこの小説は、画家で夫の「あなた」との結婚生活を振り返る「私」の、女性一人称語りで描かれている。中でも「私」が、「小さいきりぎりす」を「背骨にしまって生きて行こう」とする最後の場面は印象深い。
 「きりぎりす」は、同時代から現在まで、〈俗〉と〈反俗〉をめぐって議論がなされ、「私」は常に〈反俗〉の役割を担ってきた。本発表ではこの構図を打ち破るべく、〈読者〉を問題視する。具体的には、①太宰らしき人物を視点人物とする癖、②男性中心主義に基づいて読む癖、読者のこれらの癖が、「あなた」の視点で語りを読解する原因になっていることを述べる。しかし、「きりぎりす」が女性一人称語りである以上、「私」の語りは、本来「私」の視点から捉えるべきである。こうした観点から語りを検討すると、存在意義を認めてほしい思いと、自立が難しい現実との間に生じた「私」の葛藤が明らかになる。「私」はこの葛藤を「背骨にしまっ」た。つまり、語りの目的は「私」の気持ちの整理にあり、決して〈反俗〉にあるのではない。
 本発表では、この読みを丁寧な分析のもとに実証し、「きりぎりす」の新解釈だけでなく、自らの先入観に無自覚な読者を明らかにする。これらの指摘は、太宰の女性語り作品を読む際の陥穽に言及することにもなると考えている。
中島敦《南島譚》考
     ―〈病〉と〈南洋〉―

杉岡 歩美

 中島敦は自身の〈南洋行〉体験(昭和十六年六月~昭和十七年三月)のあと、昭和十七年十二月に〈南洋もの〉として《南島譚》との総題のもとで「幸福」「夫婦」「鶏」の三篇を発表している。
 本発表では、まず、当時の〈南洋〉における〈幸福〉概念が、近代的「教育」と近代的「医学」によって、その「原始的なる」生活を改善すること、つまり「島民教化」に結びついていた点を明らかにする。たとえば、後に中島自身も編纂に関わった「南洋群島国語読本」の第二次編纂根本方針にも「一に国語を学習することによつて、島民の幸福を増進することを第一義と致しました」と明記される。また、矢内原忠雄『南洋群島の研究』には、「日本時代に於ては、医療機関の増加は普通教育機関の増加と相併ぶ二大文化的施設」とある。ここから南洋庁が、「教育」と並ぶ「島民教化」の方法として「医療」を重視した方針が見受けられよう。
 そのうえで、中島の「幸福」「夫婦」「鶏」の三篇に〈病〉というキーワードが共通していると指摘したい。「幸福」には「文化」のもたらした「悪い病」に罹った「男」が、「夫婦」には「悪い病のために鼻が半分落ちかかつてゐたが、大変広い芋田を持つた・村で二番目の物持」である「男」が、「鶏」には「喉頭癌とか喉頭結核とか」に罹った「マルクープ老人」が描かれる。これらの〈病〉の描かれ方を通して、中島が〈南洋〉での〈幸福〉をどのように作品に入れ込んだのか、考察を深めていきたい。

2015年度 日本近代文学会関西支部春季大会ご案内

※発表要旨>>こちら

日時: 2015年6月6日(土) 13時00分から18時00分
会場: 武庫川女子大学中央キャンパス 文学部2号館・L2-11教室

内容:     
・開会の辞   

武庫川女子大学 文学部長 玉井 暲

自由発表
・徳富蘆花「灰燼」と<西郷隆盛>

平石 岳(同志社大学大学院生)

・『草枕』
   ―オフェリヤの「合掌」を中心に―

原田 のぞみ(近畿大学研修員)

・「文章世界」の小説指導
   ―田山花袋編『二十二篇』に見るその傾向―

山本 歩(関西学院大学大学院生)

・太宰治「きりぎりす」の一考察
   ―「背骨にしま」われた「私」の葛藤―

山田 佳奈(武庫川女子大学大学院生)

・中島敦《南島譚》考
   ―<病>と<南洋>―

杉岡 歩美(花園大学非常勤講師)

・閉会の辞   

日本近代文学会関西支部長 花園大学 浅子 逸男

・総会
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※総会終了後、武庫川女子大学公江記念講堂地下食堂「アゼリア」にて懇親会を開催します。
  会費は五〇〇〇円(学生・院生三〇〇〇円)の予定です。

会報20号発行

2014年10月1日付で日本近代文学会関西支部会報を発行しました。
こちらからPDFデータでご覧いただけます。  >>会報20号
  *本文データの容量が大きいので、
ダウンロードに時間がかかる場合があります。

2015年度 関西支部春季大会 研究発表募集のお知らせ

日本近代文学関西支部では、2015年度春季大会での自由研究発表を募集いたします。
支部会委員の皆さまの積極的な応募をお待ち申し上げます。
日時会場  2015年6月6日(土)/於 武庫川女子大学
募集人数  3~4名
応募締切  2015年2月20日(金)必着
応募要領  発表題目及び600字程度の要旨を封書でお送りください。
        必ず連絡先(電話番号・メールアドレス等)も明記してください。
○発表時間は30分程度です。
○採否については、運営委員会で決定次第お知らせいたします。
発表に関してご不明の点は事務局までおたずねください。
送付先
       〒631-8502 
       奈良市山陵町1500 
       奈良大学 木田隆文研究室内 
       日本近代文学会関西支部事務局

2014年度 日本近代文学会関西支部秋季大会ご案内

※本企画の趣旨>> こちら
※本企画の発表要旨>> こちら
日時: 2014年11月1日(土) 13時00分から18時15分
会場: 京都教育大学F棟 大講義室2
       → 交通アクセス & キャンパスマップ>> こちら
内容:      
・開会の辞   

京都教育大学 学長 位藤紀美子

自由発表
・有島武郎「一房の葡萄」の言説空間
 ―大正十一年という磁場―

小橋玲治(甲南高等学校非常勤)

・『半七捕物帳』の異動について

浅子逸男(花園大学)

連続企画(第四回)
シンポジウム「文学研究における〈作家/作者〉とは何か」
小特集「教室の中の〈作家/作者〉

趣旨説明・司会/山田哲久・和田崇

・「古典」との橋渡し役としての「近代以降の代表的な」「作家」
―平成20年版中学校学習指導要領を視点として―

宮薗美佳(常磐会学園大学)

        
・話者の判断の表れた言葉に着目して「高瀬舟」(森鴎外)を読む

寺田守(京都教育大学)

・村上春樹作品の教材化と、「とんがり焼きの盛衰」をめぐって

清水良典(愛知淑徳大学)

・閉会の辞   

日本近代文学会関西支部長 支部長 大橋 毅彦

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※総会終了後、京都教育大学食堂にて懇親会を開催します。
会費は五〇〇〇円(学生・院生三〇〇〇円)の予定です。

2014年度 日本近代文学会関西支部秋季大会発表要旨

自由発表
有島武郎「一房の葡萄」の言説空間
   ―大正十一年という磁場―

小橋 玲治

 有島武郎「一房の葡萄」では女性教師が主要人物として登場する。山田昭夫が「まったく非の打ちどころがない」と述べるなど、この教師には従来高い評価がなされてきた。だが、そもそも「女性教師」という存在を肯定的に描くということ自体稀なことであった。結婚できない存在にすぎないという否定的なイメージが女性教師を描くに際し横行していた中で、有島が「一房の葡萄」で提示した女性教師表象は、それが外国人であるということを鑑みたとしても、特異なものである。先行研究では、女性教師の「愛の力」と「白い美しい手」は自明視されてきたが、そのように描かれること自体が当時にあっては新しいことだったのである。
 ほぼ同時期に女性教師への社会からの目を一変させる事件が現実に起こる。「一房の葡萄」は『赤い鳥』第五巻第二號(大正九年八月)に掲載され、書籍として刊行されたのはその二年後、大正十一年六月であった。翌月、小野さつきという一人の女性教師の死が世間を賑わせた。彼女は川で溺れた生徒らを助けようとして亡くなったのだが、その死はその後一種の「メディア・イベント」に発展した。と同時に、彼女の文字通りの決死の行動は、教師の鑑として称賛されたのである。本発表では、奇しくも大正十一年という同じ年に現れた二つの「理想的な」女性教師像を取り上げる。女性教師イメージが現実に転換していく中で、「一房の葡萄」をその動きに先行する作品として捉え、女性教師を語る当時の言説空間において本作が果たした役割について考察したい。
『半七捕物帳』の異同について

浅子 逸男

 大正六年から発表された「半七捕物帳」は、昭和十二年まで断続的に雑誌掲載された作品である。最初の七篇が発表されると単行本として刊行されたが、すぐに人気が出たわけではない。翌年「半七捕物帳後篇」六篇が連載されたが、後篇は単行本にはならなかった。
 第一話として発表された「お文の魂」は、『文垂倶楽部』(大正六年一月)に発表されたあと、単行本『半七捕物帳』(大正六年七月)では本文の異同はなし、新作社版(大正十二~十四年)でわずかな改変を経て、春陽堂版(昭和四年一月)でほぼ現行の本文になった。
 事件は元治元年(一八六四年) のことである。半七の年齢が、初出では「三十前後の痩ぎすの男」として登場したのに、新作社版では「三十二三の痩ぎすの男」となるが、春陽堂版では、「四十二三の痩ぎすの男」と十歳ほど年齢が変えられる。それにしたがうと、初
出および新作社版では半七は天保五年頃(一八三四年前後)の生まれであるが、春陽堂版では文政五年頃(一八二二年前後)の生まれということになる。それにともなって、語り手の私と出会う時期も、初出と新作社版では「私が半七に初めて逢つたのは、それから廿年の後で、恰も日露戦争が終りを告げた頃」(明治三十八年)であったのが、春陽堂版では「私が半七に初めて逢つたのは、それから十年の後で、恰も日清戦争が終りを告げた頃」(明治二十八年)と変更されている。私と出会ったときの半七の年齢を変えずに、出会った時期をさかのぽらせたわけである。
 半七の生年は新作社版までは天保年間で、昭和四年の春陽堂版で文政年間に直され、以降執筆された「半七捕物帳」ではそれにあわされることになった。
 さて、半七の人気が出たのは、新作社の五冊本が出た頃あたりで、そして六代目菊五郎が芝居にかけてからのことでもあった。
 今回の発表は、本文異同についてだが、菊五廊の芝居との関連にも言及していきたいと考えている。
連続企画 文学研究における〈作家/作者〉とは何か
    ―第四回―  小特集「教室の中の〈作家/作者〉」

「古典」との橋渡し役としての「近代以降の代表的な」「作家」
  ―平成20年版中学校学習指導要領を視点として―

宮薗 美佳

 「教室における(作家/作者)」を考察するにあたり、教科書作成におけるプレテキストでもあり、各校種、各学年の学習内容を定めている学習指導要領での(作家/作者)の捉え方を検討する必要がある。現行の国語科の学習指導要領で「作家」に言及している箇所は、「中学校学習指導要領 第2章 第1節 国語」の「第4章 指導計画の作成と内容の取扱い 3 取り上げる教材についての親点」の「(4)我が国の言語文化に親しむことができるよう, 近代以降の代表的な作家の作品を, いずれかの学年で取り上げること。」である。文部科学省『中学校学習指導要領解説 国語編』(平成20年9月 東洋館出版社)では、「各学年の〔伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項〕(1)アの指導では, 古典を教材として取り扱う。これにつながる, 近代以降の代表的な作家の作品に触れることで, 我が一国の言語文化について一層理解し, これを継承・発展させる態度を育成することをねらいとしている。」と解説される。ここには、近代以前のいわゆる「古典」との橋渡しの役目を、「作家」の名によって特別に担わせることで、「近代以降の代表的な」「作家」を、現代の言語とは分断された言語を用いて創作する、「古典」の「作者」に再配置する戦略がある。以上の観点から中学校国語教科書等を、学習指導要領の運用形態として検討することにより、現行学習指導要領下の国語教育における<作家/作者>像を考察する。
話者の判断の表れた言葉に着目して「高瀬舟」(森鴎外)を読む

寺田 守

 文学作品を通して読者が作家と出会う素朴な形として、同じ作家の複数の作品を続けて読むことが挙げられるだろう。いくつかの作品に繰り返し描かれる言葉、考え方、人物像、問題、舞台などの共通点に気づく時、私たちは作家の個性や好み、問題意識といったものを感じ取ることができる。例えば森鴎外の「高瀬舟」を読む私たちは、近世を舞台とした物語には馴染まない「オオトリテエ」という言葉に違和感を覚えるが、他の作品を続けて読んでみると、頻出するドイツ語や英語、漢語などの単語語から、描こうとする事象にしっくりと当てはまる適切な言葉を求めようとする鴎外の個性を感じることになる。
 教室でこのような素朴な形の作家との出会いは、カリキュラム上必ずしも準備されているとはいえない。一つの作品を読むことで作家と出会うという少し不自然な形をとることになる。例えば説話文学を読むときには「上人の感涙いたづらになりにけり」といった文の「いたづらに」といった評価語に着目することができる。
 近現代の文学は「うれしい」 ことを「うれしい」という言葉を用いずに描く表現が優れていると考えられ、評価語に着目する観点だけでは十分とはいえない。そこで会話分析の手法を用いて、特にモダリティや話者の判断を表す言葉に着目することで、語り手や登場人物の考え方に出会う読み方を探っていきたい。
村上春樹作品の教材化と、「とんがり焼の盛衰」をめぐつて

清水 良典

 筆者は筑摩書房の高等学校国語教科書編集委員を務めている。担当した教科書に、一冊本の「国語総合」があるのだが、そこに小説教材として村上春樹の短編「とんがり焼の盛衰」が収録されている。これを話題にすることで、本企画への問題提起の足がかりとしたい。
 村上春樹は教科書に多く採択されている作家である。「沈黙」「鏡」「青が消える」「七番目の男」「レキシントンの幽霊」などが採られ、中学校の教科書でも「バースデイ・ガール」が採択されている。これらの作品の共通点を挙げると、ミステリアスな物語であり、かつその原因やー異相が明かされていない、という点である。その結果、解釈が具体から抽象まで多様に開かれている。そこに教材としての扱いやすさと難しさがある。つまり自由に議論しあえる半面、正確な読みから導かれる妥当な解釈を、教師が提供できないのである。
 それに対して「とんがり焼の盛衰」は、集散的なファンタジーの背後に、作者の自己解説によれば、既成文士に対する皮内な観察が織り込まれている作品である。それに従うなら、芥川賞レースに巻き込まれたあげく嫌な思いをした村上が、今後は自分の好きなように書いていく決心をするに至るプロセスが読み取れる。しかし、そのような<作者>性と無縁に読むことも、もちろん可能である。物語自体のオープンな抽象性と、背景に作者の経歴につながる具体的モチーフの双面性を持つこの作品は、果たして教室でどう読まれるべきだろうか。文学と教材のあいだに横たわる諸問題を、それを入口に議論していきたい。

2014年度 関西支部秋季大会小特集企画趣旨

【小特集企画】教室の中の〈作家/作者〉

趣旨
 関西支部では二〇一三年より連続企画として、「文学研究における<作家/作者>とは何か」について議論を重ねてきたが、このテーマと隣接する問題として最後に考えたいのは、教室のなかで<作家/作者>がどのように扱われているかである。
 テクスト論以降の文学研究においては、<作家/作者> の問い直しがされて久しい。では、現在の中・高の国語の授業では、一体どのように<作家/作者>が扱われているのだろう。たとえば、文学教材を<作家/作者>が発信したメッセージと捉え、「作者の言いたいこと」を正確に読み取るという学習課題は、現在も設定されているのだろうか。一方、「言語活動の充実」が『学習指導要領』にうたわれる中で、文学教材をオープン・エンドな形で話し合う議論の材料=場と意味づけた授業もあるだろう。この教室には、もはや<作家/作者>は存在しないのではないかとの思いも浮かぶ。
 また、本企画では、文学研究と国語教育の差異や連続性にも目を向けたい。そこでは、解釈の多様性という文学研究が目指してきた方法論と、国語教育における「正解到達主義批判」や「読者論」の影響を視野に収めた議論が必要となるだろう。
 教室における<作家/作者>の扱われ方とそれを取り囲むイデオロギーの問題は、<作家/作者>の神話性について考える上でも重要な示唆を与えてくれるはずである。そうした問題も踏まえて、<作家/作者>をめぐって議論してきた本連続企画をまとめてみたい。

 近年、文学研究の場と中・高の教育現場との距離が遠くなったように感じられる。国語教育に文学教材が用いられている以上、両者は隣接しているはずで、文学研究者は教科書編集や指導書の執筆という形で協力を続けている。だが、両者の対話は現在どれくらいなされているのだろう。関西支部では本特集を発端として、大学の研究と中・高の教育との差異を再確認しつつ、両者が応答し合うことにより、関係の再構築をめざしていきたい。

2014年度 関西支部秋季大会 研究発表募集のお知らせ

日本近代文学関西支部では、2014年度秋季大会での自由研究発表を募集いたします。支部会委員の皆様の積極的な応募をお待ち申し上げます。
日時会場  2014年11月1日(土)/於 京都教育大学
募集人数  2~3名
応募締切  2014年7月18日(金)必着

応募要領  発表題目及び600字程度の要旨を封書でお送りください。必ず連絡先(電話番号、メールアドレス等)を明記してください。
その他   発表時間は30分程度です。採否については、運営委員会で決定次第お知らせいたします。発表に関してご不明の点は事務局までおたずねください。
送付及び問い合わせ先
   
       〒631-8502 
       奈良市山陵町1500 
       奈良大学 木田隆文研究室内 
       日本近代文学会関西支部事務局