2011年度春季大会 発表要旨

戦後占領期の関西雑誌文化について                           
  和田 崇(立命館大学大学院)
敗戦後間もない一九四五年後半から四六年にかけて、日本の知識人の間では、にわかに「文化国家」の建設が言われ始めた。日本の武装解除、平和主義と表裏一体の関係を成すこの文化国家の理念の下、全国各地で様々な雑誌が発行され、未曾有の隆盛を極めた。
 四六年一月、京都では大雅堂が総合雑誌「時論」を創刊した。大雅堂社長の田村敬男は、山本宣治の同志で、敗戦直後に結成された京都文化団体協議会へと加盟し、文化面で京都民主戦線の一翼を担った。同団体には、後に白川書院を立ち上げる臼井喜之介(臼井書房)の詩雑誌「詩風土」も参加した。また、これら二誌と同じ一九四六年一月に、富士田健一(新風社)の文芸雑誌「新風」も創刊され、新村出、室生犀星、吉井勇など豪華な執筆者が顔を揃えた。
 遅れること同年四月、大阪では弘文社の文学雑誌「東西」、真日本社の総合雑誌「真日本」がそれぞれ創刊された。弘文社社長の湯川松次郎は、『上方の出版文化』(一九六〇年)を著すなど、関西に愛着を持っており、戦前のプラトン社以降、関西の雑誌文化が衰退していることを憂えていた。また、真日本社の社長は、後に関西政界の大物となる有田二郎で、「真日本」創刊号には美濃部達吉などの天皇制論が掲載されて政治色が強い一方、後の号では織田作之助や西川満の短編小説も掲載された。
 本発表では、これらの雑誌の特色を捉えながら、「関西雑誌文化」という認識の枠組を敢えて提示することにより、中央偏重の文化に対する地方文化が起こりつつあった敗戦後の関西の状況を考察したい。
捨象された存在──笙野頼子『説教師カニバットと百人の危ない美女』論──
  泉谷 瞬(立命館大学大学院)
笙野頼子『説教師カニバットと百人の危ない美女』(一九九九・一)は、語り手である独身の中年女性と、結婚願望が極端に肥大した「お化け」である女性たちが対峙する長編小説である。語り手はかつて自身の顔貌によって女性的価値を否定された人物だが、そのことを肯定的に捉え直し、「醜女」の私小説を書くことで生活の資を得るようになった。こうした逆転現象を一つの動機として、良妻賢母思想を信奉する「お化け」たちは語り手を様々な手段によって抑圧していく。
だが、この相克は語り手と「お化け」、どちらかの勝利に収束するような構成に陥らない。圧倒的な物量攻撃を仕掛けてくる「お化け」たちに語り手はむしろ共感を示し、自身の立場を相対化していくのである。小説発表当時においては時代錯誤とも理解される女性蔑視的な言説が、何故こうした展開を通じて物語に挿入されるのか。
それは保守反動的な主張を意味するものではなく、言説の相対化による文学的実践、すなわち「声」を奪われてしまった存在の表象に他ならない。かつてマルクス主義フェミニズムが焦点化した「家事労働」の概念は主婦の被る二重搾取を明確にしたが、ここに笙野のテクストを突き合わせることで、そうした理論によって社会的に捨象された存在を見出すことが可能となる。それはまた、単一の層として把握することが困難な女性たちの実情を抽出する作業でもあった。
『説教師カニバットと百人の危ない美女』は笙野の文学活動における文体の変化と併せて注目されることが多いが、本発表では以上のような観点から、物語の内部へ詳しく切り込んでいきたい。
横光利一「日輪」の映画化を考える
  島村 健司(龍谷大学)
本発表の目的は、「日輪」の映画化(一九二五、衣笠貞之助監督)を横光利一の文学的営為にとって重要なエポックとして位置づけることにある。横光と映画とのかかわりを考えるこれまでの論調は、新感覚派映画連盟による第一作目「狂つた一頁」(一九二六、衣笠監督)に重点がおかれ、「日輪」の映画化は衣笠と横光をつなぐ端緒として触れられる程度にとどまっている。一九二三年五月、「蠅」(『文芸春秋』)と同時期に発表された「日輪」(『新小説』)は、横光の文壇デビュー作ともいわれる。このような点からしても「日輪」映画化の重要性は高い。また、衣笠の回想によると(「「十字路」以前 衣笠貞之助むかし話」『キネマ旬報』一九五五・一)、映画「日輪」の脚本者「一文字京輔」は特定のだれか一人ではなく、映画製作にかかわる数名を総称したペンネームとも思われる。そうだとすれば、横光もここに組み込まれていた可能性がある。
発表の手順として、まず、このような「日輪」映画化に際して横光自身がかかわった事跡を明らかにする。そのうえで、フィルム自体が残っていないものの、「日輪」の映画化にかかわる言説を参照しつつ、小説・映画という表現形式の差異を検討する。このような試みは一九二〇年代の日本の芸術交流におけるダイナミズムを探る一助にもなると考える。
幸田露伴「平将門」論
  西川 貴子(同志社大学)
 幸田露伴「平将門」(『改造』大正九・四)は、典拠を示しながら将門に纏わる話を自由に語るという形式の作品である。従来より『将門記』研究において、史実調査の充実という点で評価されているものの、具体的な分析はまだ充分にはなされていない。
しかし、本作品で重要なのは、資料引用の方法であり、また「下らない文字といふものに交渉をもつて、書いたり読んだり読ませたり、挙句の果には読まれたりして、それが人文進歩の道程の、何のとは、はて有難いことではあるが、どうも大抵の書は読まぬがよい、大抵の文は書かぬがよい。」と冒頭で明言し、言葉によって創られていく「歴史」の〈危うさ〉を自覚的に語っていく、その語り方であろう。
 明治以前より将門は、『神皇正統記』や『大日本史』で「叛臣」として取り上げられる一方で、狂言や謡曲、草双紙などで妖術を使う者とされたり、神田明神として祀られたりするなど様々な伝承を有していた。しかし、明治以降、『将門記』の資料的な価値が実証史学の立場で見直され、特に真福寺本『将門記』が国宝とされる中で、将門の人物像が活発に検討されるようになっていく。こうした同時期の将門解釈のあり方を視野に入れつつ、本発表では、大正九年という時期に、なぜこのようなスタイルであえて平将門を取りあげ語ったのかを、資料引用の方法と作品内の語り方に注目することで明らかにし、露伴の歴史認識を探る手がかりとしたい。