2011年度秋季大会企画 発表要旨

久生十蘭『予言』の一人称形式について
    ――『黒い手帳』『海豹島』の改稿過程の分析から――

  開 信介 (京都大学大学院)

 
 本発表の目的は、久生十蘭『予言』(初出・一九四七年八月号『苦楽』)において特徴的に用いられている「人称代名詞なしの一人称」がどのような効果を意図して用いられているのかについて詳細に考察することである。『予言』の特徴的な一人称の形式については、これまでしばしば言及されることがあったものの、単に臨場感を高めるための工夫としか理解されてこなかった。

 
 本発表では、『予言』が発表された時期とほぼ同時期に改稿を経て再掲された『黒い手帳』(初出・一九三七年一月号『新青年』、再掲・一九四八年五月号『サロン』)および『海豹島』(初出・一九三九年二月号『大陸』、再掲・『江戸川乱歩愛頌探偵小説集』中巻・岩谷書店・一九四七年八月刊)の改稿過程の分析を補助線として用い、『予言』の一人称形式が同作の構成上不可欠なものとして機能していることを示したいと考えている。

 
 発表の順序としては、『黒い手帳』および『海豹島』の改稿過程を『予言』の語りを分析するうえで用いることの妥当性に触れたのち、『黒い手帳』および『海豹島』の改稿過程を分析し、そこで得られた結果を用いながら『予言』の語りの機能について分析する。

 
 語りの形式を含めた文体の選択には、ときとして作家の思想が現れている。久生十蘭は自らについて語ることの少なかった作家であるが、本発表の試みは、昭和十年代から二十年代という多難な時代を生き抜いた久生十蘭という作家の「思想」を探るうえでの一助にもなりうるであろう。

『文づかひ』誕生の現場  ――森鷗外のテクスト生成過程――                 
  檀原みすず (大阪樟蔭女子大学)

  
 森鷗外の自筆原稿『文づかひ』(大阪樟蔭女子大学図書館蔵)は、作者自身による加筆・修正が比較的少なく、整っているためであろうか、浄書稿ではないかとの憶測も出ている。この自筆原稿は複製刊行され容易に目にすることが可能だが、直接オリジナルに触れなければ発見できないような様々な情報も確認される。例えば、貼紙の下に書かれた最初の案なども読み取れ、推敲のあとを辿ることができる。加筆・修正を重ねた草稿がそのまま入稿原稿となっていることを、作家に関する情報と編集者に関する情報との相互関連から明確にした上で、原稿から浮かび上がってくる問題点について検討したい。

  
 主に『文づかひ』の文体・語法について、鷗外の規範意識を探っていく。『文づかひ』が初めて活字化された『新著百種』第十二号(明治二十四年一月刊)には落合直文の手紙が掲載され、落合が『文づかひ』の文法などを訂正したという伝聞的な話が付随しているが、その実体は知られていない。明治の近代文体として言文一致が唱えられ、日本文法の揺籃期にあって、鷗外の文体観や文章観は早く『言文論』に窺うことができる。これは落合直文の提唱する「新国文」の本旨を生かしたものとされている。

  
 『文づかひ』のテクスト生成過程を通して、鷗外の文体・語法などの上に落合直文の影響を検証し、『舞姫』『うたかたの記』など『水沫集』収録のほかの作品とも比較しながら、『文づかひ』の本文校訂の特徴を明らかにしたい。

堀辰雄と『万葉集』     渡部麻実 (天理大学)

  
 堀辰雄と平安文学との関係性については、これまでも少なからず言及されてきた。しかし、堀と上代文学との関わりについては、従来ほとんどかえりみられたことがない。

  
 ところで、代表作の一つに『大和路』を挙げ得る堀は、一九三七(昭和一二)年以降、四三年にかけて、実に六度にもわたる大和旅行を展開しているが、その背景には、〈万葉小説〉なるものの執筆計画が存在していた。結局計画は挫折し、『万葉集』の影響を如実に感得し得る活字化されたものとしては、のちに『大和路』としてまとめられる小品「古墳」(「婦人公論」一九四三年三月)「死者の書」(同年八月、同誌)を数え得る程度である。そしてこうした事情が、堀と上代文学、『万葉集』との関わりへの積極的な考察を、従来の堀研究が閑却してきた原因であることは疑い得ない。

  
 とはいえ、折口信夫の影響を受けつつ、一九三七年頃より開始された、堀における上代文学、とりわけ『万葉集』の積極的な受容の内実は、膨大な手沢本や筑摩書房版『堀辰雄全集』に収録された数種のノートにより、比較的詳細にたどることが可能である。のみならず、実現しなかった〈万葉小説〉の創作ノートと見られる断片「(出帆)」が遺稿として存在し、同全集に翻刻掲載されてもいる。

  
 本報告では、蔵書への書き入れ、およびノートや草稿を考察の主座に据えることで、堀辰雄と『万葉集』との関わりを可能な限り闡明し、あわせて挫折した〈万葉小説〉についても報告者なりの見解を提示し、マニュスクリを手がかりに、堀研究における新たな可能性を開くことに挑戦したい。

エクリチュールの解釈学 ――森鷗外「舞姫」の改稿をめぐって――
  戸松 泉 (相模女子大学)

  
 明治23年1月3日発行の「國民之友」に「新年附録」として掲載された「舞姫」には、この時書かれた原稿が残されており、かつて「森鷗外自筆舞姫草稾」として複製版が限定出版された。それによると、この原稿は、発表誌の段組みにあわせた字数(24字)で、無罫の半紙に毛筆で丁寧に書かれていることがわかる。おそらく枡目のフォーマットを作成し、それを下敷きにして書いたと思われる。したがって、基本的には清書原稿と考えてよいだろう。しかし、そこには加筆・削除の跡も数多く残されており、作者の「書くこと」の営みを如実に探ることができる、きわめて動的な資料ともなっている。本発表では、この原稿によって、初出「舞姫」本文解釈のための、いくつかの問題点を提起してみたい。また、この二年半後、『美奈和集』(明治25・7、春陽堂)において冒頭のモノローグのなかにあった、時事性を濃厚に映す一つの段落が削除されていくのだが、この「削除」後の本文との差異から、なにが見えてくるのかも、合わせて問題にしてみたい。この改稿については、いまだ明快な解釈を示した論文を、不明にして知らない。

  
 「舞姫」の改稿問題を考えるとは、個々の本文の差異を考えることであり、それはまた価値を判断することでもある。そしてその作業は、一つ一つの「舞姫」をテクストとして読むことによってなされるべきだろう。細部のみの比較では差異は決して見えてこない。なぜなら、テクストを読むとは、一つのテクストの細部と全体との、「解釈学的循環」の中の相互作用によって成り立っていくものだから。多くの「舞姫」論は、流通している最晩年の小説集『塵泥』掲載本文に拠っている。「確定稿」として評価の定まったかのような歴史が横たわっているためなのだろうか。私自身も、先の「改稿」は必然であったと読む者であるが、その価値判断に自分なりに至った経緯について語ってみたいと思っている。

固有名詞と数字  ――山田美妙『竪琴草紙』典拠考――
  須田千里 (京都大学)

   
 芥川龍之介『るしへる』(大正七年十一月『雄弁』)のエピグラフは、〈元版全集〉から〈前回全集〉まで、『聖朝破邪集』所収の許大受「聖朝佐闢」本文に遡って校訂されてきたため、初出や『傀儡師』所収本文と相違する個所があった。すなわち、「随造三十六神」(全集)←「随従三十六神」(初出)、「一半魂神作魔鬼」(全集)←「一半魂神作魔」(初出)等である。ただし「輅(る)斉(し)布(へ)児(る)」は、固有名詞であるためか、「聖朝佐闢」に「輅斉弗児」とあるのに校訂していない。確かに、文意としては原典である「聖朝佐闢」に遡った方が通りがよい。しかし、芥川が依拠したのは神崎一作編『破邪叢書』第一集(明治二十六年九月哲学書院)所収『杞憂小言』所引の「佐闢」であった。ここでは「るしへる」の表記も「輅斉布児」で本作と一致する。引用の誤り、固有名詞の表記は、典拠を確定する手掛かりとなる。

  
 本発表では、歴史に取材した作品中の固有名詞・数字など細部の枠組に注目することで、草稿として残された山田美妙初期の作品『竪琴草紙』(明治十八年)の典拠を考察する。精力的に出典調査を行った山田俊治氏によれば、依拠文献は「年代記的記述を持った歴史的叙述」のなされた「英文原書の可能性」があるという(『山田美妙『竪琴草紙』本文の研究』二〇〇〇年)。確かに、アルフレッド大王が九〇一年十月二十六日に五十二歳で死去したとの末尾の一節を取ってみても、それと合致する記述を持つ文献は限られる。本発表では、J. A.GilesのThe life and times of Alfred the Great(1848)などの関係文献を検討しつつ、『竪琴草紙』の典拠について検討する。