2014年度 日本近代文学会関西支部春季大会発表要旨

発表要旨 自由発表
空転する「デカデンツ」
 ─昭和一〇─一一年「デカダン論争」の問題圏─

福岡 弘彬(同志社大学大学院生)

 昭和一〇年一〇月、保田与重郎は「日本浪曼派」に「主題の積極性について(又は文学の曖昧さ)」を発表する。保田はこの晦渋な芸術論において、自分たちこそがポスト・マルクス主義を担う者であることを、「デカデンツ」の語を用いて表明した。この語を符牒とした一枚岩の「日本浪曼派」を偽装する保田であったが、しかし彼が「僕ら」と想定した共同体内部からも、その外部からも、「デカデンツ」は罅入れられ、壊体されてしまう。同時期文壇において〈デカダンス〉問題が喧しくなる中で、「デカデンツ」は現代の若者の虚無的・頽廃的傾向の問題へと転轍され、ほとんどついに理解されることはなかった。「ほゞ一年の間にデカダン文学といふことは、日本の現文壇人を総動員してあらぬ方に歪められて了つた」(保田与重郎「文芸時評」、「日本浪曼派」昭11・9)――。
 保田与重郎自身「デカダン論争」と呼ぶ右のような事態を復元することが、本発表の狙いである。「主題の積極性について(又は文学の曖昧さ)」を焦点に、保田が「デカデンツ」に込めた意味と戦略を明らかにした上で、「論争」――とは到底呼べぬものであるが――の推移を整理することで、その語の概念化・伝達の失敗を辿る。文壇を空転する「デカデンツ」の軌跡を追いながら、しかし確かにそこに生じていた〈デカダンス〉の新たな可能性を考察したい。
初期日本SFにおける「核」の表象
 ─一九六〇年代半ば~七〇年代初頭の
                  ショート・ショート作品を中心に─

森下 達(京都大学非常勤)

 本発表では、一九六〇年代半ばから七〇年代にかけて、ジャンル的な成立を果たした後の日本SFに対して、ショート・ショートを中心に検討を加える。問題になるのは、以下の二点である。ひとつ目は、ショート・ショート作品において、核戦争による破滅や放射線被曝による奇形化などのモチーフが、わかりやすい「オチ」としてしばしば用いられたこと。ふたつ目は、同時代における原子力発電事業の拡大を背景に、電力会社のPR誌や、日本原子力文化振興財団の発行する『原子力文化』に発表された諸作品において特に、完全な電化がなされた未来社会が作品の舞台として描かれたことである。結果、被爆/被曝に対する恐怖感が、現実の国際情勢から切り離され、切実さを失っていった一方で、一九四〇~五〇年代に夢想されていた原子力による理想社会というヴィジョンは、単なる未来の日常として、政治問題化されない形でより広く受け入れられるようになっていった。
 星新一に代表されるSF作家は、ショート・ショートにおいて顕著だが、あざやかな視点の転換による価値の相対化をその中心的な方法論としてきた。初期の日本SFにおける「核」表象を論じることは、SF的な相対化の方法論が、社会的なテーマにいかに関わり得るのか、あるいは、関わることができないのかを考える上での手がかりを与えてくれるだろう。エッセイなども俎上に載せることで、SF作家たちが拠って立つSF観、科学観を問い直し、問題に答えたい。
連続企画 文学研究における〈作家/作者〉とは何か
    ―第三回―  小特集「サブカルチャーと〈作家/作者〉」

 
TVアニメにおける監督の位置
 ―『まどか☆マギカ』における演出スタイルから―

禧美 智章(立命館大学非常勤)

 多数のスタッフの手によって制作されるアニメーションにおいて、〈作家/作者〉あるいは「作家性」の問題はどのように捉えられるべきだろうか。例えば、作品全体を統括する役割を担うのが監督であるが、細分化された制作過程のなかで監督が各制作パートのどこまで関わっているのかが不明瞭であるという問題が存在する。特に、限られた予算と時間のなかで毎週三〇分の作品を制作しなければならないTVアニメの場合、ストーリーに関しては、監督の他に何名もの脚本家やストーリーを統括するシリーズ構成が加わる制作体制、演出に関しても、監督の指示のもと、各話ごとに異なる演出家が担当する制作体制が一般的となっている。
 本発表では、主に二〇一一年に放映された、虚淵玄脚本・新房昭之監督のアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』を取り上げ、その演出のあり方に着目する。本作は、脚本家の虚淵氏が全てのシナリオを担当しているが、インタビュー等でシナリオがキャラクター等の設定に先行して執筆された上で、制作がなされたことが明らかにされている。発表では、同じシナリオを小説化、マンガ化したノベライズ版、コミック版との比較を補助線に、シナリオと映像の比較分析を行う。虚淵氏による脚本を監督である新房氏がいかに映像化しているのか、そのイメージの展開を考察することを通して、TVアニメにおける監督の位置を明らかにし、TVアニメにおける〈作家/作者〉の問題を検討する。
「記号としての作者」は死につつあるか?
 ─「実話怪談」系文庫の変遷とホラー作家─

奈良崎 秀穂(プール学院大学非常勤)

 ここで用いている「記号としての作者」というのは、例えばこの作家の新作が出たらストーリーもなにも知らなくても無条件に買う、といった意味合 いで作用している換喩的な「記号」である。現在一部で支持を得る「実話怪談」系文庫というジャンルは、こうした「記号としての作者」が介在しづら いジャンルなのではないか?
 「実話怪談」系文庫は九〇年代半ば以降、急速に発行点数を伸ばし、一ジャンルを築いた感があるが、それは古い記号性に頼った「中岡俊哉」的なものを否定することによってもたらされたのではなかったか。九三年以降「実話怪談」系文庫は『「超」怖い話』シリーズと稲川淳二を軸に回り始めた。いわば、「中岡俊哉」という記号によって喚起される古き怪談は見捨てられ、無名の一般人=「記号性を持たない作者」という新たな記号による実話怪談が発見されたのである。
 角川ホラー文庫というレーベルは、「記号としての作者」を一方に置き、もう一方に新たに発掘した新人を配して、約二十年に渡りホラー小説界をリードし続けてきた。そこでは新たな「記号としての作者」を生み出しもしたが、また多数の新人を見捨ててもきた。それはおそらく新たなビジネススタイルだったのだろう。取り敢えず多数の新人を発掘するというスタイルは、その後「実話怪談」系文庫にも及び、そこでは作者という記号性が剥奪され、「無名性」が作者に代わる記号として作用する状況を生みだしている。
「分身」としての主人公
―さくらももこ作品における〈笑い〉の変容─

山田 夏樹(駒澤大学ほか非常勤)

 さくらももこ「ちびまる子ちゃん」(「りぼん」一九八六・八~九六・六。以後不定期掲載)は、一九七四年の静岡県清水市を舞台とする「エッセイ・コミック」として描かれていた。しかしその後、揺れはありながらも、徐々に作者「さくらももこ」と主人公「まる子」は解離し、ノスタルジーを喚起するものではなく、多くの登場人物が戯れる様相を描き出す側面の強い作品に変容していくこととなる。
 九〇年代初頭にブームとなった当時から、実際にはそのようなポストモダン性は指摘されてもいたのであるが、一方で、「まる子」が自身の「分身」「一部」になっていったことも作者によって主張されていく。つまり、登場人物として対象化していく過程と、自身と一体化するように認識していく過程が並行して行われる。そして、そうした一見相反する構図において、本作は単に「エッセイ・コミック」から離れるだけでなく、〈笑い〉の性質も大きく変容させることとなっていく。
 今回、そうした仕組みに注目することにより、作品内に登場する作者、または主人公の機能について改めて考察していきたい。少女マンガという表現形態や、ベストセラーとなった『もものかんづめ』(集英社、一九九一・三)から現在に至るまで描き続けられている一連のエッセイ、また同時代の〈笑い〉などとの関わりについても言及する。