2012年度 日本近代文学会関西支部春季大会発表要旨

「想像上の人類学」の受容と変容
 ― 外遊以後の荷風におけるゾラの影響 ―

 林 信蔵(京都大学非常勤講師)
 「科学と想像力」という言葉は、エミール・ゾラ(一八四〇―一九〇二)の文学的営為を評するためのキーワードであり続けていると言ってよい。『実験小説論』(一八八〇)の発表当初から、ゾラによる科学と文学の混同が批判されてきた一方で、近年では、生理学や遺伝学と神話的な想像力との混淆によって生まれた、いわゆる「想像上の人類学」(ジャン・ボリ)の独創性が注目を集めている。ゾラの「想像上の人類学」の中心には、人間のなかには、普段は抑圧されているプリミティヴな側面があり、何かのきっかけで理性の働きが弱まると横溢し、破滅的な暴力の形をとって出現するという発想がある。
 永井荷風(一八七九―一九五九)は、初期の代表作『地獄の花』(一九〇二)において、ゾラ的な人間観にもとづいた作品を書き上げたが、その一方で、アメリカ・フランス外遊(一九〇三―一九〇八)以後、ゾラの影響を相対化したと考えられている。しかしながら、荷風が外遊以後に関心をもったフランスの心理学や社会学などの学術的著作(バザイヤス『音楽と無意識』〔一九〇八〕やギュイヨー『社会学的観点から見た芸術』〔一八八九〕)のなかには、前述の人間観と密接な関係を有するものが少なくない。それゆえに、それらの人間観が初期作品以外にもある程度形を変えつつ生き続けている可能性がある。本発表では、このような視点から荷風の外遊以後の批評および創作活動の再解釈を試みる。
安部公房と大阪万博
 ― 速度・時間・言語

 友田義行 (日本学術振興会特別研究員PD・立命館大学非常勤講師)
 一九七〇年に大阪で開催された日本万国博覧会は、「人類の進歩と調和」を基本テーマとした。今日では、それは人類のもつ科学技術の進歩を言祝ぐ言葉であると同時に、人類を滅ぼすほどの力をもつに至った科学技術との調和の必要性を喚起する警句でもあるように見える。しかし、ベトナム戦争や核の問題といった社会情勢が影を落としていた当時、強調されたのはむしろ「人類の素晴らしさ」であり、「心の進歩」であった。月の石は、宇宙という新しい世界への移動が誰しも可能となるような未来を約束してくれるものであった。
 パビリオンごとにさまざまな展示が為されるなかで、それらを映し出したのもまた、科学の産物であった。すなわち、映写・投影装置である。巨大スクリーンや球体スクリーン、そしてマルチディスプレイといった技術の粋が会場を飾りたてた。映像という、科学と切り離せない表象ジャンルにとって、その「進歩」は形式と切り離して考えることはできない。映像の内容を決めるのは演出側だけでなく、映写側も一体となって創作に携わる時代が到来していたのだ。安部公房と勅使河原宏監督は、こうした映像技術の発展を取りこんだ実作に取り組んでいる。本発表では、「自動車館」に出品された『一日二四〇時間』を取りあげ、SF論、モンタージュ実験、自由の模索といった安部×勅使河原の継続的テーマに加え、速度・時間・言語との相関という視点からこの作品の「科学」表象について考察したい。
敗戦後の科学的想像力のもたらしたもの
 ~ サイエンス・フィクションと小松左京 ~

 澤田由紀子(甲南大学非常勤講師)
 東日本大震災後、小松左京著『日本沈没』は、阪神淡路大震災に続き二度目の再評価を受けることとなった。高度経済成長期の問題意識と先見的な科学知識を内包した小松左京の『日本沈没』は、メディアミックスによる広範なムーブメントも相まって、プレートテクトニクス理論を浸透させ、故に大震災時毎に注目を浴びることになる。しかしこれは実は残念な事象ではなかったか。小松左京など敗戦経験から科学と人間の関係をSF(サイエンス・フィクション)というジャンルで追求し、文明の有り様を批判的に提示してきた世代の作家達の意識と、現実がSFの想像力を凌駕したと錯覚している現代人の、科学を〈神話〉化する意識との差は、今回の甚大な自然災害と、同時に起こるべくして起こった原発事故によって残念ながら明らかにされたと言える。科学技術の〈神話〉化、批判力の貧困は何に起因するのか。近代文学研究において、文明批評をその命題としてきたSF小説はサブカルチャーとして囲い込まれ、その批評性への評価は十分になされてきたとは言えない。科学と人間の関係をその生涯をかけて発信し続けた小松左京作品の真の想像力と文明批評に、今、真摯に耳を傾ける時である。
怪異を再編する
 ―明治後期の文壇における「怪談」ブームをめぐって

 一柳廣孝 (横浜国立大学)
 怪異は、その時代の規範的な解釈コードから逸脱する現象として認知される。解釈主体は、自らに内在する文化規範と照合しつつ、特定の現象の意味づけを図る。ここで既存の説明体系に当てはまらないと判断されたとき、その現象は「怪異」となる。したがって怪異の意味の措定は、自ずからその時代の文化的な規範を照射することとなる。明治後期は『怪談会』(一九〇九・一〇、柏舎書楼)、小川未明「薔薇と巫女」(一九一一・三、「早稲田文学」)、森鷗外「百物語」(一九一一・一〇、「中央公論」)など、文壇において怪異への眼差しが活性化した時期である。同時期には、柳田國男『遠野物語』(一九一〇・六、聚精堂)が刊行されてもいる。そして一九一〇年は、千里眼や念写の実在をめぐって学界とマスコミが紛糾した時期でもあった。これらの錯綜するベクトルは、旧来からの霊魂観がいったん否定された地点から再構成されている点で、興味深い言説を織りなしている。本発表では、「新公論」の妖怪特集号(一九一一・四)、「新小説」における特集「怪談百物語」(一九一一・一二)などの言説を中心に、科学的なフレームを経由した地点でおこなわれる怪異解釈の再編をめぐる問題から、科学と想像力について考えてみたい。

2012年度春季大会 特集企画発表者募集

 日本近代文学会関西支部では、2012 年度春季大会において特集「科学と想像力」を企画しております(下記【企画趣旨】をご覧下さい)。つきましては、下記の要領で支部会員の皆様から発表を公募することといたしました。ぜひ積極的なご応募をお待ち申し上げます。
特集企画 : 科学と想像力
日時会場 : 2012年6月9日(土) / 於 大阪樟蔭女子大学
募集人数 : 2名程度
応募締切 : 2012年2月末日
応募要領 : 発表題目および600字程度の発表要旨を封書(表に「特集企画発表希望」と朱書き)でお送りください。必ず連絡先(住所・電話番号・メールアドレス等)を明記下さいますようお願い申し上げます。
 ※採否につきましては2012年3月末日までにご連絡いたします。 

送り先及び問い合わせ先 :
  日本近代文学会関西支部事務局   → こちらをご参照ください。

【 企 画 趣 旨 】  科 学 と 想 像 力

 文学と科学との積極的な交流は、近代文学をそれ以前と区別する、ひとつの明確な指標であろう。近代とは、科学の劇的な発達や機械の衝撃的な登場・進化にいろどられた時代にほかならない。映画の登場による変革と労働者搾取につながる新技術の導入と闘いのなかで機械を描出したプロレタリア文学、宮沢賢治の「シグナルとシグナレス」(1923)、文学としての映画(脚本)を模索した岸田國士「ゼンマイの戯れ」(1926)など、科学との対峙を経て積極的に取り込もうとした試みには新たな時代への期待がみなぎり、新たな見解を得て、文学が着実に進歩する動向が感じられる。
 森鷗外がマリネッティ「未来派宣言」を翻訳紹介したのは1909年のことだが、その後、機械のフォルムと性能に芸術美を見出せることや、機械が芸術の素材領域の拡大と表現の更新をもたらし得る可能性がひろく認識されるに至り、近代文学は電気や自動車、工業機械の普及を間近に眺め、飛行機やロボットの登場に刺激を受けつつ、1920年代以降、ますます活発に、機械や科学技術を文学表現の対象とし始めた。こうした傾向がプロレタリア文学やモダニズム文学にも共通して見出せることは、近代文学と科学・機械との交流を考えるうえで、おそらく一つの重要な視点を提供しているだろう。
 また、戦時下にあらわれた海野十三「火星兵団」(1941)のような軍事的空想科学小説や、「SFマガジン」創刊以後のSF小説の隆盛など、科学を基点とする想像力も無視できない。長山靖生『日本SF精神史』(2009)に、政治小説に描かれた民権思想のユートピアを一種の平行宇宙として捉える視点や、戦後SF作品と大正期以降のユーモア小説との近接が示されているように、科学と文学、および現実社会との交流は一時代に限定された一過性の現象ではなく、安部公房、星新一、小松左京などによる昭和期のSF作品をはじめ、1980年代隆盛のファンタジー、1990年代以降のサイエンスホラー、2000年代以降のライトノベルなど、文学に長らく通底するモチーフとして、時代を横断しつつ論じるべきであろう。
 タイムマシンやロボットなど、文学の想像力はしばしば科学をリードし、現実がそれを追走してきた。最先端の文明を手にしながらも、人はいまもなお、科学という現実性の窓をとおして描かれるフィクションを希求する。書き手が生み出し、読み手の脳裏に浮かんでいく科学的イマジネーションの魅力の再評価も行いたい。
 本特集では、科学をキーワードに持ち得る個別の作品分析はもちろん、ジャンルとしてのSF、あるいは文学潮流のなかに散見される機械との関係性、科学的なエンタテイメント小説など、幅広い視野・時代からの多彩なアプローチを歓迎する。大会が文学と科学の関わりを問う現場となり、新たな展望を引き出せる機会となることを期待したい。
 

『兵庫近代文学事典』刊行

日本近代文学会関西支部
兵庫近代文学事典編集委員会編
『兵庫近代文学事典』
(和泉書院、定価5,000円+税)

『兵庫近代文学事典』が和泉書院より刊行されました。
本事典の特色は、作家や作品と兵庫との関わりが記載内容の中心となっている点にあります。兵庫には、摂津・丹波・但馬・播磨・淡路とさまざまな地域があり、その中心となる神戸は、地理的には海と山が隣接する狭隘な空間で、中世以降の港湾都市としての歴史を受け継ぎながら、明治以降に時代に呼応しつつその姿を変化させてきました。その発展の中で戦災や震災も経験した兵庫を舞台とした作品も、執筆された時代や描かれる地域によって多様な要素や特徴が認められます。各項目はそうした点を中心に記され、いくつかのテーマに関する「コラム」欄も設けました。また、文学を広く捉え、これまでの文学事典ではあまりとりあげられなかった兵庫出身の文化人や漫画家もできるだけ紹介することに努めています。巻末には、「兵庫県内の文学館・美術館」「兵庫の文学賞・文化賞」の一覧も掲載しています。

2011年度秋季大会のご案内

日時 : 2011.11.12(土)、13-18時
会場 : 神戸女子大学三宮キャンパス特別講義室
      →交通アクセス&キャンパスマップ
内容:
・開会の辞       神戸女子大学文学部教授  安田 孝
・特集「テクストの生成 ─草稿・原稿・本文校訂─ 」
          司会 : 西尾元伸/渡邊ルリ/宮内淳子/木田隆文
・久生十蘭『予言』の一人称形式について
     ―『黒い手帳』『海豹島』の改稿過程の分析から―

                       開 信介(京都大学大学院)

 
・『文づかひ』誕生の現場 ―森鷗外のテクスト生成過程―
                       檀原みすず(大阪樟蔭女子大学)

 
・堀辰雄と『万葉集』           渡部麻実(天理大学)

 
・エクリチュールの解釈学 ―森鷗外「舞姫」の改稿をめぐって―
                       戸松 泉(相模女子大学)

 
・固有名詞と数字 ―山田美妙『竪琴草紙』典拠考―
                       須田千里(京都大学)

 
・閉会の辞       千里金蘭大学  明里千章 支部長      
・臨時総会
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※総会終了後、神戸女子大学三宮キャンパス教育センター
 1階ラウンジにて懇親会を開催します。
 会費は5000円(学生・院生4000円)の予定です。
 
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2011年度秋季大会企画 発表要旨

久生十蘭『予言』の一人称形式について
    ――『黒い手帳』『海豹島』の改稿過程の分析から――

  開 信介 (京都大学大学院)

 
 本発表の目的は、久生十蘭『予言』(初出・一九四七年八月号『苦楽』)において特徴的に用いられている「人称代名詞なしの一人称」がどのような効果を意図して用いられているのかについて詳細に考察することである。『予言』の特徴的な一人称の形式については、これまでしばしば言及されることがあったものの、単に臨場感を高めるための工夫としか理解されてこなかった。

 
 本発表では、『予言』が発表された時期とほぼ同時期に改稿を経て再掲された『黒い手帳』(初出・一九三七年一月号『新青年』、再掲・一九四八年五月号『サロン』)および『海豹島』(初出・一九三九年二月号『大陸』、再掲・『江戸川乱歩愛頌探偵小説集』中巻・岩谷書店・一九四七年八月刊)の改稿過程の分析を補助線として用い、『予言』の一人称形式が同作の構成上不可欠なものとして機能していることを示したいと考えている。

 
 発表の順序としては、『黒い手帳』および『海豹島』の改稿過程を『予言』の語りを分析するうえで用いることの妥当性に触れたのち、『黒い手帳』および『海豹島』の改稿過程を分析し、そこで得られた結果を用いながら『予言』の語りの機能について分析する。

 
 語りの形式を含めた文体の選択には、ときとして作家の思想が現れている。久生十蘭は自らについて語ることの少なかった作家であるが、本発表の試みは、昭和十年代から二十年代という多難な時代を生き抜いた久生十蘭という作家の「思想」を探るうえでの一助にもなりうるであろう。

『文づかひ』誕生の現場  ――森鷗外のテクスト生成過程――                 
  檀原みすず (大阪樟蔭女子大学)

  
 森鷗外の自筆原稿『文づかひ』(大阪樟蔭女子大学図書館蔵)は、作者自身による加筆・修正が比較的少なく、整っているためであろうか、浄書稿ではないかとの憶測も出ている。この自筆原稿は複製刊行され容易に目にすることが可能だが、直接オリジナルに触れなければ発見できないような様々な情報も確認される。例えば、貼紙の下に書かれた最初の案なども読み取れ、推敲のあとを辿ることができる。加筆・修正を重ねた草稿がそのまま入稿原稿となっていることを、作家に関する情報と編集者に関する情報との相互関連から明確にした上で、原稿から浮かび上がってくる問題点について検討したい。

  
 主に『文づかひ』の文体・語法について、鷗外の規範意識を探っていく。『文づかひ』が初めて活字化された『新著百種』第十二号(明治二十四年一月刊)には落合直文の手紙が掲載され、落合が『文づかひ』の文法などを訂正したという伝聞的な話が付随しているが、その実体は知られていない。明治の近代文体として言文一致が唱えられ、日本文法の揺籃期にあって、鷗外の文体観や文章観は早く『言文論』に窺うことができる。これは落合直文の提唱する「新国文」の本旨を生かしたものとされている。

  
 『文づかひ』のテクスト生成過程を通して、鷗外の文体・語法などの上に落合直文の影響を検証し、『舞姫』『うたかたの記』など『水沫集』収録のほかの作品とも比較しながら、『文づかひ』の本文校訂の特徴を明らかにしたい。

堀辰雄と『万葉集』     渡部麻実 (天理大学)

  
 堀辰雄と平安文学との関係性については、これまでも少なからず言及されてきた。しかし、堀と上代文学との関わりについては、従来ほとんどかえりみられたことがない。

  
 ところで、代表作の一つに『大和路』を挙げ得る堀は、一九三七(昭和一二)年以降、四三年にかけて、実に六度にもわたる大和旅行を展開しているが、その背景には、〈万葉小説〉なるものの執筆計画が存在していた。結局計画は挫折し、『万葉集』の影響を如実に感得し得る活字化されたものとしては、のちに『大和路』としてまとめられる小品「古墳」(「婦人公論」一九四三年三月)「死者の書」(同年八月、同誌)を数え得る程度である。そしてこうした事情が、堀と上代文学、『万葉集』との関わりへの積極的な考察を、従来の堀研究が閑却してきた原因であることは疑い得ない。

  
 とはいえ、折口信夫の影響を受けつつ、一九三七年頃より開始された、堀における上代文学、とりわけ『万葉集』の積極的な受容の内実は、膨大な手沢本や筑摩書房版『堀辰雄全集』に収録された数種のノートにより、比較的詳細にたどることが可能である。のみならず、実現しなかった〈万葉小説〉の創作ノートと見られる断片「(出帆)」が遺稿として存在し、同全集に翻刻掲載されてもいる。

  
 本報告では、蔵書への書き入れ、およびノートや草稿を考察の主座に据えることで、堀辰雄と『万葉集』との関わりを可能な限り闡明し、あわせて挫折した〈万葉小説〉についても報告者なりの見解を提示し、マニュスクリを手がかりに、堀研究における新たな可能性を開くことに挑戦したい。

エクリチュールの解釈学 ――森鷗外「舞姫」の改稿をめぐって――
  戸松 泉 (相模女子大学)

  
 明治23年1月3日発行の「國民之友」に「新年附録」として掲載された「舞姫」には、この時書かれた原稿が残されており、かつて「森鷗外自筆舞姫草稾」として複製版が限定出版された。それによると、この原稿は、発表誌の段組みにあわせた字数(24字)で、無罫の半紙に毛筆で丁寧に書かれていることがわかる。おそらく枡目のフォーマットを作成し、それを下敷きにして書いたと思われる。したがって、基本的には清書原稿と考えてよいだろう。しかし、そこには加筆・削除の跡も数多く残されており、作者の「書くこと」の営みを如実に探ることができる、きわめて動的な資料ともなっている。本発表では、この原稿によって、初出「舞姫」本文解釈のための、いくつかの問題点を提起してみたい。また、この二年半後、『美奈和集』(明治25・7、春陽堂)において冒頭のモノローグのなかにあった、時事性を濃厚に映す一つの段落が削除されていくのだが、この「削除」後の本文との差異から、なにが見えてくるのかも、合わせて問題にしてみたい。この改稿については、いまだ明快な解釈を示した論文を、不明にして知らない。

  
 「舞姫」の改稿問題を考えるとは、個々の本文の差異を考えることであり、それはまた価値を判断することでもある。そしてその作業は、一つ一つの「舞姫」をテクストとして読むことによってなされるべきだろう。細部のみの比較では差異は決して見えてこない。なぜなら、テクストを読むとは、一つのテクストの細部と全体との、「解釈学的循環」の中の相互作用によって成り立っていくものだから。多くの「舞姫」論は、流通している最晩年の小説集『塵泥』掲載本文に拠っている。「確定稿」として評価の定まったかのような歴史が横たわっているためなのだろうか。私自身も、先の「改稿」は必然であったと読む者であるが、その価値判断に自分なりに至った経緯について語ってみたいと思っている。

固有名詞と数字  ――山田美妙『竪琴草紙』典拠考――
  須田千里 (京都大学)

   
 芥川龍之介『るしへる』(大正七年十一月『雄弁』)のエピグラフは、〈元版全集〉から〈前回全集〉まで、『聖朝破邪集』所収の許大受「聖朝佐闢」本文に遡って校訂されてきたため、初出や『傀儡師』所収本文と相違する個所があった。すなわち、「随造三十六神」(全集)←「随従三十六神」(初出)、「一半魂神作魔鬼」(全集)←「一半魂神作魔」(初出)等である。ただし「輅(る)斉(し)布(へ)児(る)」は、固有名詞であるためか、「聖朝佐闢」に「輅斉弗児」とあるのに校訂していない。確かに、文意としては原典である「聖朝佐闢」に遡った方が通りがよい。しかし、芥川が依拠したのは神崎一作編『破邪叢書』第一集(明治二十六年九月哲学書院)所収『杞憂小言』所引の「佐闢」であった。ここでは「るしへる」の表記も「輅斉布児」で本作と一致する。引用の誤り、固有名詞の表記は、典拠を確定する手掛かりとなる。

  
 本発表では、歴史に取材した作品中の固有名詞・数字など細部の枠組に注目することで、草稿として残された山田美妙初期の作品『竪琴草紙』(明治十八年)の典拠を考察する。精力的に出典調査を行った山田俊治氏によれば、依拠文献は「年代記的記述を持った歴史的叙述」のなされた「英文原書の可能性」があるという(『山田美妙『竪琴草紙』本文の研究』二〇〇〇年)。確かに、アルフレッド大王が九〇一年十月二十六日に五十二歳で死去したとの末尾の一節を取ってみても、それと合致する記述を持つ文献は限られる。本発表では、J. A.GilesのThe life and times of Alfred the Great(1848)などの関係文献を検討しつつ、『竪琴草紙』の典拠について検討する。

 

日本近代文学会関西支部・韓国日本近代文学会共同開催特別企画のご案内

2011年11月5日(土)、韓國外國語大學校において、日本近代文学会関西支部・韓国日本近代文学会共催による大会「海を越えた文学(2)──太宰治をめぐって──」を開催します。近代文学の国際的な研究交流を深める機会として、多くの支部会員の皆様にもご参加頂きたくご案内申し上げます。
 関西支部からは、支部長、運営委員長とともに、[基調講演]越前谷宏氏、[研究発表]木村小夜氏、岡村知子氏、[コメンテーター]木村一信氏、斎藤理生氏が参加いたします。各発表題目および大会の詳細は下記の通りです。

日時 : 2011.11.5(土)、12:30~18:30
会場 : 韓國外國語大學校 ソウルキャンパス 教授会館2階講演室
       ソウル特別市東大門里門洞270
       ソウルメトロ1号線 外大前駅下車 徒歩10分
言語 : 日本語
内容:
・開会の辞      金容安 (漢陽サーチ(調べる)大)
 ・特集「海を越えた文学(2)――太宰治をめぐって――」
【基調講演】
・ 太宰治研究の五十年      越前谷宏 (龍谷大)/
                      司会:崔在喆 (韓國外大)
【研究発表1】     司会 : 矢印左右錦宰 (南ソウル大)
・ 『人間失格』の「はしがき」と「あとがき」考       許昊 (水原大)
      コメンテーター : 木村一信 (プール学院大学)/
                崔錫才 (江陵原州大)
・「清貧譚」における〈ロマンチシズム〉      木村小夜 (福井県立大)
      コメンテーター : 洪明嬉 (蔚山大)/奥村裕次 (長安大)
・太宰治研究―キリスト教観の理解をめぐって―  全秀美 (韓國外大)
      コメンテーター : 申鉉泰 (祥明大)/矢印左右顯周 (仁荷大)
【研究発表2】     司会 : 任苔均 (聖潔大)
・『人間失格』から読み取れる反語       金容安 (漢陽サーチ(調べる)大)
      コメンテーター : 斎藤理生 (群馬大)/朴相度 (ソウル女子大)
・敗戦後の太宰治―家父長制とジェンダー―
                             岡村知子 (大阪府立大)
      コメンテーター : 矢印左右淑延 (仁荷大)/阿武正英 (祥明大)
・太宰治の『皮膚と心』論      金京淑 (德成大)
      コメンテーター : 尹相鉉 (景園大)/矢印左右恩姬 (啓明大)
【総合討論】      司会 : 申智淑 (啓明大)
・閉会の辞      明里千章 (千里金蘭大)

問い合わせ先 : 関西支部事務局 → こちらをご参照ください

※韓國外國語大學校日本語HP → こちらをご参照下さい
 

会報第15号

日本近代文学会関西支部会報第15号が発行されました。

こちらからご覧になれます。   >>会報第15号

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■「会報」15号に以下の誤りがございました。お詫びして訂正いたします。

4頁3段27行目 「会員の業績」欄、工藤哲夫氏の項目
(誤)②「”貝の火”の正しい手入れ法―中尾淸藏
「蛋白石概論(二)」からの考察―」『女子大國文』一一年一月


(正)②「”貝の火”の正しい手入れ法
―中尾淸藏「蛋白石概論(二)」からの考察―」
(注記:澤井麻妃子との共著。「淸藏」&「概」の字は旧字体。)
『女子大國文』一一年一月

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2011年度秋季大会 特集企画発表者募集

 日本近代文学会関西支部では、2011 年度秋季大会において特集「テクストの生成―草稿・原稿・本文校訂―」を企画しております(下記【企画趣旨】をご覧下さい)。つきましては、下記の要領で発表者を公募することといたしました。支部会員の皆様の積極的なご応募をお待ち申し上げます。
特集企画 : テクストの生成―草稿・原稿・本文校訂―
日時会場 : 2011年11月12日(土) 神戸女子大学 三宮キャンパス
募集人数 : 2名程度(関西支部会員)
応募締切 : 2011年7月末日
応募要領 : 発表題目および 600 字程度の要旨を封書でお
        送りください。必ず連絡先(電話番号・メールアドレ
        ス等)も明記してください。表書きに「秋季特集発
        表希望」と朱書きしてください。
        ※ 採否につきましては2011年9月初旬までに
          ご連絡いたします。
送り先および問い合わせ先 :
         日本近代文学会関西支部事務局
         >>こちらをご参照ください。
【企画趣旨】「〔特集〕テクストの生成―草稿・原稿・本文校訂―」
 
 フランスに生まれた生成論によるアプローチが、’90 年代以降、日本近代文学の研究においても行われるようになった。2003 年10 月刊行『日本近代文学』:「特集「本文」の生成/「注釈」の力学」や、2010 年9 月刊行『文学』(岩波書店):「特集草稿の時代」、その他各種のシンポジウムなど、近年では、強い関心が寄せられるものとなっている。
 作家は、草稿を書き、原稿を仕上げ、朱を入れて推敲を重ねる。さらに初出から単行本、あるいは全集にいたるまで改稿が続けられる場合もある。また、編集者などの第三者が関与することも少なくない。文学作品が、草稿から最終形態にいたるまで一定不変の姿を保持することはむしろ稀であり、多くの場合は、多彩なヴァリアントを持つことになる。あるいは、テクストとは、その生成過程において変形を繰り返す多様な可能性として存在するものであり、活字化されたテクストの誕生は、ひとつの可能性を選択し、別の可能性を断念した結果である、と言い換えることもできよう。
 このようなテクスト生成のありように、あらためて意識的でありたい。同時に、あり得たかもしれない多様な可能性についての視点を以て、たとえば全集本に接するとき、私たちは、その校訂の経緯についてもより意識的にならざるを得ないだろう。近代文学における本文校訂の問題までを問うてみたいと考えるゆえんである。
 現在では、原稿はコンピュータ上のデータの形で扱われ、細かな推敲過程の痕跡は失われる場合が多くなった。草稿・原稿を起点としたテクストの生成過程の考察は、草稿・原稿類が現存するときにのみ可能なことである。その一方で、作家毎の自筆原稿複製版の刊行・データベース化など、資料の整備が進みつつある状況もある。私たちは、どのように草稿・原稿という資料を扱うことができるのか。いま、その可能性について再考しておきたい。