2009年度春季大会シンポジウム発表要旨

 2009年度日本近代文学会関西支部春季大会におけるシンポジウム「文学研究における継承と断絶――関西支部草創期から見返す――」の「企画のことば」と発表要旨は以下の通りです。
(春季大会のご案内は→こちらをご覧下さい
日本近代文学研究の転回点から(企画のことば)               
                            浅野 洋(近畿大学)
 唄は世につれ……ではないが、文学研究の方法にも〈時流〉があって何の不思議もない。とはいえ、最近の研究状況は、知ってか知らずか、現下の立脚点になった「近過去」の積み重ねにあまりにも冷淡すぎるように思える。最新の〈時流〉に乗り遅れまいとして前掛かりとなり、それ以前の方法や成果――たとえば昭和四十年代や五十年代の近過去――を無視あるいは没却しすぎる弊に陥っているのではなかろうか。換言すれば、今日の研究シーンの原点となった〈出発点〉、いうなればみずからの〈足元〉に対する注視を、あまりになおざりにしてはこなかっただろうか。
 ひとくちにいえば、研究方法の更新とは常に〈継承と断絶〉の争闘の歴史である。文学研究の重要な柱のひとつがテクスト(作品)を包摂する広義での〈歴史性〉の発掘や意味づけにあるとしたら、我々の研究自体にもまた〈歴史性〉が刻印されているはずである。歴史を忘れた研究や方法は必ずや歴史に復讐される。
 その意味で、今回のシンポジウムは、研究や方法の〈歴史〉の一端を見直そうという趣旨である。題して「文学研究における継承と断絶――関西支部草創期から見返す――」。我々の活動の足場である関西支部の〈歴史〉を想い起こし、そこから現在の研究状況に至る〈歴史性〉を見返そうというのである。
 たとえば、三十年前の関西支部発足の創設メンバーである谷沢永一氏。谷沢氏は、近代文学研究が大衆化する呼び水ともなった〈作品論〉隆盛の時期、そのリード役であった三好行雄氏や越智治雄氏らに対して関西の地から鋭い「牙」を剥き、厳しい「紙の飛礫」を投じて「方法論論争」(昭51~53)なる大きな波紋を呼んだ。関西支部は、この論争の余燼がくすぶる中で創設されている。一方、北村透谷研究で出発し、芥川や独歩や漱石に関しても精力的な成果をあげつつ、明治の〈戦後〉を軸とする「文学史」を構築し、「〈夕暮れ〉の文学史」を紡いだ平岡敏夫氏。みずからを「文学史家」と位置づける平岡氏は、かつての「方法論論争」において谷沢氏と応酬を交わしつつも、関西支部創設二十周年の際にはその記念講演を快諾されたように、関西支部とは浅からぬ縁がある。ついでに言えば、前田愛氏がやがて『都市空間の中の文学』(昭57)にまとめる一連の仕事も、この「方法論論争」を横目に見てのことだった。関西支部の出発は、そうした近代文学研究の一つの転回点とともにあったのである。
 このように「生きた歴史」の渦中にあった御二人の先達から、当時の思い出とともに研究や方法に関する話をジックリ聞きたいと思う。管理意識の色濃い〈東京方式〉とは異なり、講演ののちは、フランクな座談形式をもって対話を楽しみたい。進行役・質問役を兼ねる壇上の三名(太田登・田中励儀・浅野洋)に限らず、会場からの自由・活発な質問・意見を望みたい。制限のゆるやかな〈関西風ダラダラ学会〉を企画したゆえんである。
文学研究の発想
                        谷沢 永一(関西大学名誉教授)
 文学研究は作品に内在する要素を組み立てて、作品が何を基礎として成立しているかの構成方法を、明確に浮かび上がらせるのを本来の目的とする。作品から研究者が読み取れるとする隠喩には、確実な証拠が必要であろう。金融に対する規制が求められているように、想像力には実証という限度が自覚されるべきである。
 テクストという便利な用語が氾濫して以来、そのテクストなるものから何を読み取るかの作業を競うのは自由であろうが、それによって作品の構造が透視されるのでなければ、議論は糸の切れた凧みたいに中空を舞うのみであろう。
 作品を分析するには論理的構築が必須であり、その進行に資する他の分野から得た暗示は有効であろうが、文学研究の分野から発生したのではない理論体系を直接に持ち込む安易な態度は自粛されるべきである。
 独創は貴重であるが、現在までに蓄積されてきた研究史の成果を継承するのが本筋であろう。発表される研究論文によって当該作品の価値と位相がさだめられるべきなのが当然である。作品そのものが如何なる水準に位置するかが明瞭に示唆されるに至って、始めてその論文に客観的意義が生じる。但し、価値評価の偏りや歪みを是正して、新しくて確固とした評価の基準を生み出すところに、研究の醍醐味が存するのではあるまいか。
文学史研究における継承と断絶
  ――関西支部30周年のテーマに寄せて――

                         平岡敏夫(筑波大学名誉教授)
 今回の発表は次のような構成で行う予定である。
1 関西支部20周年――『〈夕暮れ〉の文学史』より
 一九九九年(平成11)十一月六日、関西支部20周年の会が関西大学で開催された折、「〈夕暮れ〉と日本近代文学――谷崎潤一郎『蘆刈』を中心として――」と題して講演を行ったが、その際、田辺聖子の作品における〈夕暮れ〉東西比較論、『枕草子』、後鳥羽院、荷風『すみだ川』等の〈夕暮れ〉の継承と挑戦があった旨を指摘、『〈夕暮れ〉の文学史』刊行後のことにも及ぶ。
2 研究と研究史――『昭和文学史の残像Ⅱ』より
 今回の支部30周年のテーマを受けとめて、現在の一例に及ぶ。
3 作品論と文学研究――『昭和文学史の残像Ⅱ』より
 昭和40年代からの〈作品論〉の流行とされる現象に対し、併行して〈文学史〉があったことを指摘する。
4 『日露戦後文学の研究』について
 ヤウス『挑発としての文学史』にも関わる共時態的な文学史研究と〈戦後〉の問題。
5 『ある文学史家の戦中と戦後』
 勝本清一郎・三好行雄・前田愛氏を中心に。
6 佐幕派の文学史
 〈佐幕派〉の視点で明治文学史を見直す。
7 『明治文学史』研究
 既出の「明治文学史」の継承・検討の課題。

2009年度春季大会のご案内

2009年度 日本近代文学会関西支部春季大会 ご案内
《日時》2009年6月13日(土) 午後1時~午後5時30分
《会場》近畿大学 文芸学部A館・3階 301室
               〒577-8502 東大阪市小若江3‐4‐1
               電話 06(6721)2332(代表)
(交通アクセスとキャンパスマップは→こちらをご覧下さい
《内容》
挨   拶               近畿大学文芸学部長  井面 信行
支部創設30周年記念・シンポジウム
文学研究における継承と断絶――関西支部草創期から見返す――

 
 文学研究の発想            関西大学名誉教授  谷沢 永一
 文学史研究における継承と断絶
  ――関西支部30周年のテーマに寄せて――
                       筑波大学名誉教授  平岡 敏夫
 司会・ディスカッサント         国立台湾大学     太田 登
                       同志社大学       田中 励儀
                       近畿大学        浅野 洋
総会
閉会の辞                  支部長         浅野 洋      
※懇親会…大会終了後、近畿大学食堂・KURE(キュア)にて懇親会を開催します。会費は5000円(学生・院生4000円)の予定です。
※同封のはがきで、大会・懇親会のご出欠を5月30日(土)必着で(ご欠席の場合も)必ずお知らせください。
※役員の方は、11時までに近畿大学文芸学部301室にご参集ください。

2008年度分の会員業績一覧データ募集など

 関西支部『会報』の次号、第13号に掲載する記事(2008年度分の業績一覧等)を、例年のごとくお送り願いたく、ご連絡申し上げます。
 締め切りは2009年6月末日です。
 詳しくは、下記の要領をご覧下さい(pdfファイルです)。
こちらをご覧下さい→日本近代文学会関西支部『会報』第13 号発行についてのお願い

2008年度秋季大会 自由発表(午前)および特集発表(午後)要旨

 2008年度日本近代文学会関西支部秋季大会(大会のご案内は→こちら)の自由発表(午前)、および特集発表(午後)の発表要旨は以下の通りです。
■自由発表(午前の部)
矛盾の共存――宮本百合子一九三〇年代作品の諸相――
池田 啓悟(立命館大学大学院)
 宮本百合子は作家同盟参加直後には旅行記やソ連を舞台とした作品を多く書いていたが、「舗道」(1932年1~4月)あたりから方向性をかえ、日本を舞台に女性労働者を描き始める。彼女は常にプロレタリア文学運動の方針に忠実であろうとした作家であったが、書かれた作品は方針との間に齟齬をきたしているように見える。この作品は企業が女性を区別し二流労働力としてあつかうという、女性労働のあり方を描いているのだが、こうした性別職務分離の構造は百合子が従おうとしていた革命運動の中にも存在した。岩淵宏子氏が指摘したように、その問題に触れているのが「乳房」(1935年4月)であり、ここではハウスキーパー制度が批判されている。これだけなら資本主義社会の性差別のあり方に向けられたまなざしが革命運動の中にも同じ構造を見つけざるを得なかった、ということなのかもしれない。ところが、両作品の間に「小祝の一家」(1934年1月)が描かれ、その中で非合法活動に携わる夫を支える妻の姿が肯定的に描かれていることが問題を複雑にしている。このような百合子作品の錯綜したあり方を読み解くには、単に革命運動の中にも性差別が存在したと指摘するにとどまらず、こうした矛盾がどのようにして共存することが可能であったか、その構造を追及する必要があるだろう。
 本発表では以上のような観点から百合子の諸作品の間に、また同一作品の中にもある揺らぎに焦点をあて、そこにどのような力学が働いているのかを考察したい。
三島由紀夫「親切な機械」論――事件の虚構化をめぐって――
田中 裕也(同志社大学大学院)
 三島由紀夫「親切な機械」(「風雪」昭24・11)は、京都で昭和二十三年四月十四日に起こった京大女子学生殺人事件を題材にして描かれた小説である。臼井吉見氏は「社会ダネに取材した」(「日本経済新聞」昭31・10・6)最初の小説と位置づけ、その評価は以後も引き継がれている。しかし「親切な機械」を単独で論じた研究は、管見の限り高場秀樹「三島由紀夫『親切な機械』論――素材からのアプローチ」(「京都語文」平14・10)のみである。本発表では、まず三島が京都を訪れた時期と理由を検討し、三島の出版界との関わり方や執筆の契機を明らかにする。昭和二十四年当時、京都で出版活動をしていた世界文学社の講演会に招聘されて入洛した三島は、滞在期間中に事件関係者から話を聞いた。それが「親切な機械」執筆の契機になったのではないか。次に実際の事件に関する言説と小説内容についての共通点と差異を探る。そのことにより、三島が小説で事件を模倣した箇所と自ら創作した箇所を少しでも鮮明にしたい。三島は「親切な機械」の「後記」に、「京都旅行で得た新資料」により作品を書くきっかけを得たが「資料はさして用ひられず、事件に対する見方の角度の決定にのみ役立つた」と書いた。三島の言う「新資料」とは何か、先行研究が触れていない当時の雑誌資料を示し作品解釈を施す。これらの作業により三島の社会ダネ小説執筆の一端を明らかにしたい。
■特集・樋口一葉――縛られた〈一葉〉、放たれる〈テクスト〉――(午後の部)
企画の言葉
 樋口一葉の文学は、さまざまなイメージに縛られてきました。人生については薄幸の才媛・女だてらの戸主・金銭的窮乏・さまざまな恋愛沙汰など、また、そのテクストは身体・性・経済・結婚・ジェンダーなどによって語られてきました。先行研究の多くがこうした数多くの〈縛り〉(基軸)に加担し、あるいは離反しようとしつつ、その枠組みから容易に逃れられないでいます。
 一方、多くの人々に愛される〈一葉〉は、芝居や映画、絵画から紙幣の肖像に至るまで、実にさまざまな〈テクスト〉の中に変容・再生産されています。こうした状況にあって、これまで縛られてきた〈一葉〉を、今、新たに解き放つことは可能でしょうか。たとえそれがもうひとつの新たな〈縛り〉になるとしても。
 今回の特集は、あまたの先行研究の中に身をおいてもなお、あらためて多様な〈テクスト〉を解き放つ試みが可能か、そして、新たな〈一葉〉を発見し得るのか、との思いから組まれました。発表者のみならず、会場との活発なやりとりも期待しています。
「われから」をめぐって(仮題)
小森 陽一(東京大学)
 自分では絶対選ぶことのできない、自らの出自と性差を生きながら、樋口一葉という表現者について、発言を引き受けることは、本音では絶対にしたくないことなのだ。なぜなら、聴き手に発言を批判されつくされて、敗北することがあらかじめわかっているからだ。
 そして、おそらく「敗北」という「戦争の比喩」を使用したこと自体が、批判の矢面に立たされることになるだろう。なぜなら、「矢面」という言葉自体が、信長以前の主要な軍事用語だからだ。
 その意味で、樋口一葉ほど軍事用語の比喩を、自らの小説テクストに使用しなかった明治の作家は、希有な存在だったのかもしれない。もし天皇という「超越的なシニフィアン」を認めてしまえば、軍事用語はいくらでも小説テクストを侵食することになるだろう。一葉はその侵食を許さなかった。
 では、その一葉の、どのテクストを論じる権利が私にあるのだろうか。おそらく「われから」という、一人称の人称性を誇示した題名を持つ、題名だけから言えば「ファルス中心主義的」なテクストを批判的に読むことしかありえないのではないか。「われ」という一人称が、誰の、どこに設定され、「から」とは、そのどこからの離脱なのかを見極めたい。
〈肖像〉へのまなざし――鏑木清方『一葉』の位相――
笹尾 佳代(同志社大学大学院)
 鏑木清方が描いた『一葉』は、樋口一葉の肖像画として最もポピュラーで、「実物」らしいと評価されてきた。だが、清方は生前の一葉に会ったことは無く、描かれたのも死後四〇年以上経過した一九四〇年のことであった。それにも関わらず『一葉』は、発表当時からその姿がよく「写し撮られた」ものであるといった評価(荒城季夫「奉祝展の日本画を観る」など)を得ていく。ここには、映画・写真など他の視覚メディアと対照される中で見いだされていた、日本画ならではのリアリズムへの賛辞があった。肖像画としての『一葉』評価は、そこに〈真実の姿〉を求める、観る者の想像力に支えられていたのである。
 こうした評価を呼び込んだ要因としてとりわけ重視したいのは、『一葉』が描出していた〈生活空間〉と、それが置かれた紀元二六〇〇年奉祝展覧会という〈場〉との関係である。奉祝展を意識した時、清方はそれまで抱いていた構想を一変させて、画材を「随筆「雨の夜」の成れる一夜の女史の心境なり姿」(「一葉」)にしたという。「雨の夜」が高等女学校における国語教科書の定番教材であったこと、そして、奉祝行事が銃後を活性化させるための「戦陣の祭り」であったことを考える時、その結びつきの相互作用を見逃すことはできない。ナショナリズム高揚の〈場〉にあって『一葉』の図像と随筆「雨の夜」との結びつきは、観る者の現状を巻き込みながら『一葉』にリアリティを見出し、戦時体制下の女性たちの模倣の対象としての〈一葉像〉を創出していたのである。
「にごりえ」再考――映画「にごりえ」を補助線として――
山本 欣司(弘前大学)
 お力を特権化することなく、小説「にごりえ」を読めないものだろうか。そんなことを考えるようになったのは、何度か繰り返して映画「にごりえ」※を観ているときであった。一九五三年、今井正監督により映画化された「にごりえ」は、その年のさまざまな国内映画賞を総ナメにした秀作であるが、淡島千景演じるお力の、印象の違いに気づいたのである。美しい容姿とすばらしい演技で観客/嫖客を魅了する淡島千景=お力ではあるが、映画では、彼女の描かれ方や菊の井にしめる位置が小説と微妙に異なるのである。
 私自身、一九九二年に「にごりえ」を論じた際は、当然のこととしてお力の「思ふ事」にスポットを当て、結果的にお力の特権化に与した。これまで多くの「にごりえ」論がお力を特異な女性と見なし、その内面を忖度してきた。しかしそれは、小説「にごりえ」にふさわしい読み方なのかとの違和感を持ったのである。
 源七やお初、結城に焦点をあてて「にごりえ」を論じられないかと提案したいわけではない。そのような〝ずらし〟を狙うのではなく、特異な女性としてお力を捉えるのではない「にごりえ」の論じ方はないかというのである。
 小説「にごりえ」を読んでいるだけでは、私の中でこのような問題意識は生まれなかったと思われる。優れたフィルムメーカーが、多くの制約の下で原作と格闘し、創りあげた映画=一つの豊穣な解釈を補助線とすることで見えてくるものがある。小説と映画のあわいで揺蕩う、そんな発表になろうかと思う。
※ 製作:伊藤武郎、脚本:水木洋子・井手俊郎、撮影:中尾駿一郎、新世紀映画・文学座作品。樋口一葉の「十三夜」「大つごもり」「にごりえ」をオムニバス形式で映画化。キネマ旬報ベストテン1位(2位は小津安二郎「東京物語」、3位は溝口健二「雨月物語」)、毎日映画コンクール作品賞・監督賞、ブルーリボン賞1位など。DVDは新日本映画社が発売、独立プロ名画特選のうち。
『十三夜』の構成――《つとめ》を視座として――
水野 亜紀子(大阪大学大学院)
 『十三夜』の構成について論じるものには(上)(下)のつながりをどのように把握するかという点に問題を見出すものが少なくない。『十三夜』における(下)の必然性や作品上の効果はすでに考察されているが、発表者は『十三夜』が(上)(下)を通して初めて成立する作品であると考え、(下)が用意されることに、より積極的な意義を見出す。本発表では、本文の分析を通して(上)と(下)が緊密に呼応し合っていることを指摘し、その構成について独自の見解を提示する。
 (上)において、お関は父親から婚家へ戻るようにと説得を受けて実家を後にするが、そこにお関の心中は描かれず、彼女が翻意をしたかどうかまでは明示されない。「彼れほどの良人を持つ身のつとめ」「妻の役」「世の勤め」という言葉で女大学的に妻としての《つとめ》を慫慂する父親の言葉は、その時点で、お関の腑に落ちるものとはならないのである。(下)において録之助との邂逅が描かれることによって、お関はそのひっかかりに向き合うことになる。
 録之助は零落した姿で登場するが、そこでお関が彼の現在を、自分にひきつける形で見る機会を得ていることに着目する。お関は録之助との邂逅を通して父親から説かれた《つとめ》の大事に気付かされるのではないだろうか。そのようにして《つとめ》という観点から捉えると、(下)は本作品にとってその存在の意味を増すと考えられる。
「コンタクト・ゾーン」における女性主体――『にごりえ』と『ラマン』
佐伯 順子(同志社大学)
 樋口一葉の『にごりえ』(一八九五年)とマルグリット・デュラスの『ラマン』(一九八四年)には、直接的な影響関係は無いが、両作品には、内容と形式の両面において、様々な共通性が認められる。少女時代に父を亡くし、兄二人と母という家族構成のなかで育ったデュラスは、極貧のなかで、幼くして精神的な自立を余儀なくされた自身の分身として『ラマン』の少女を描き、書くことによる主体性の獲得を模索しつつ、女性の性的なイニシエーションを、女性の視点から描いた。一方一葉も、父と兄の死により、戸主として家族を支える必要に迫られ、孤独のなかで、書くことによる自己実現をめざした。そこには、女性の性の商品化、経済的自立の困難、心身の痛みという共通のモチーフが認められる。
 東京という都市のなかで、下級娼婦というマイノリティの生を生きる『にごりえ』のお力と、植民地社会で、白人でありながら底辺の生活を味わう『ラマン』の少女の生は、ともに「コンタクト・ゾーン」(M・L・プラット)における異文化衝突の葛藤を体現してもいる。頻出する「流れ」と「水」のモチーフは、異文化接触のなかで浮遊する、不安定な女性主体のありようを等しく表現していよう。
 時代と地域を隔てながらも、女性のエクリチュールに現れる、自立への模索と、共通するジェンダーの問題を、比較文学の対比研究の手法から探りたい。

2008年度秋季大会のお知らせ

2008年度日本近代文学会関西支部秋季大会のご案内
《日時》2008年11月8日(土) 午前10時~午後5時30分
《会場》近畿大学 文芸学部A館・3階 301室アクセスは→こちら
               〒577-8502 東大阪市小若江3‐4‐1
               電話 06(6721)2332(代表)
《内容》
挨   拶              近畿大学文芸学部長  井面 信行
自由発表(午前の部)
発表要旨は→こちら
 
 矛盾の共存――宮本百合子一九三〇年代作品の諸相――
                       立命館大学大学院  池田 啓悟
 三島由紀夫「親切な機械」論――事件の虚構化をめぐって――
                       同志社大学大学院  田中 裕也
特集・樋口一葉――縛られた〈一葉〉、放たれる〈テクスト〉(午後の部)
発表要旨は→こちら
 「われから」をめぐって
                            東京大学  小森 陽一
 〈肖像〉へのまなざし――鏑木清方『一葉』の位相――
                       同志社大学大学院  笹尾 佳代
 「にごりえ」再考――映画「にごりえ」を補助線として――
                            弘前大学  山本 欣司
 『十三夜』の構成――《つとめ》を視座として――
                       大阪大学大学院  水野亜紀子
 「コンタクト・ゾーン」における女性主体――『にごりえ』と『ラマン』
                           同志社大学  佐伯 順子
閉会の辞                支部長  近畿大学  浅野 洋      
※懇親会 大会終了後、近畿大学食堂・カフェテリア・ノベンバーにて懇親会を開催します。会費は4500円(学生・院生3500円)の予定です。
※同封のはがきで、大会・懇親会のご出欠を10月24日(金)必着で(ご欠席の場合も必ずお知らせください。
※役員の方は、9時30分までに近畿大学文芸学部301室にご参集ください。

2008年度秋季大会 発表者募集(特集・樋口一葉 および自由発表)

 日本近代文学会関西支部運営委員会では、2008年度秋季大会(11 月8 日、会場・近畿大学)における「特集・樋口一葉」(仮題)を企画しています。会員の研究発表を募集します。発表を希望される方は、2008年7月末日必着にて、事務局まで封書でお申し出ください。
 なお、併せて秋季大会における自由発表(特集ではない研究発表)も募集しています。会員の活発な研究発表を期待します。
〈送り先〉〒577-8502 東大阪市小若江3-4-1
近畿大学文芸学部 佐藤秀明研究室内
日本近代文学会関西支部事務局
◇ 表書きに「一葉発表希望」「自由発表希望」のいずれかを朱書きしてください。
◇ 発表題目とともに 600 字程度の要旨もお送りください。(テキストファイルにしたフロッピーディスクも添付くださると助かります。)必ず連絡先(電話番号・メールアドレス等)も明記してください。
◇ ご希望の採否については、9月初旬までにご連絡します。
研究発表の募集期間は終了しました。

2008年度春季大会 シンポジウム発表要旨

 2007年度日本近代文学会関西支部春季大会のシンポジウム発表要旨は以下の通りです。
■織田作之助の関西弁
        宮川 康(大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎)

 以前から気になっていたことがあった。ひとは小説を何弁で読んでいるのか。もちろん音読する場合のみならず、むしろ黙読する場合に。たとえば、織田作之助『夫婦善哉』の冒頭の一文「年中借金取が出はいりした。」は、東京弁アクセントで読むのと、関西弁アクセントで読むのとでは、ずいぶん趣を異にする。さらにこの小説のすべての文章は、関西弁アクセントで浄瑠璃語りのように読まれるべきであり、東京弁アクセントを基調とした黙読では、この小説の魅力は到底理解されまい。もちろん、織田自身は充分にそのことを意識していたろう。それは織田が自らの作家的個性の土台としようとしたものであったかもしれない。ただ、黙読されることを前提とした近代小説においてそのような個性があるがままに受け入れられなかったのも無理のないところであった。織田の小説のすべてがこのような個性の下に書かれているわけではなく、戦後の『競馬』や『世相』を読むのにことさら「何弁か」を意識する必要はあるまい。思えば、織田の最初の習作である戯曲『落ちる』は全編泉州弁の応酬であったが、その後の戯曲の台詞はすべて東京弁となり、小説第二作『雨』が書かれるところで織田の中の関西弁が再び蘇る。そして『夫婦善哉』が書かれるのである。そのあたりの過程。また、織田の小説における関西弁は大阪弁ばかりではなく、京都弁や和歌山弁を話す登場人物も現れる。それらの持つ意味なども考えてみたい。
■〝関西弁〟 からみる大岡昇平の文学
        花﨑 育代(立命館大学)

 シンポジウムのタイトルのなかにあるのは「大阪弁」や「京都弁」といったことばではない。またこれらのエリアを示していう「関西」を冠しているが「関西ことば」や「関西方言」でもない。『日本国語大辞典』(小学館)には第二版で掲載されるようになったものの、初版には載っていなかった、しかし流通している「関西弁」である。「方言」とはいわないが「ことば」ともいわない。
 専門ではないからいろいろ書くのは憚られるが、社会言語学では「日本の中心言語」は近世、具体的には文化文政期ころに「関西から関東に移」ったとする(真田信治、山口仲美など)。文学資料としては『浮世風呂』などが知られている。近代のいわゆる国民国家形成期の「標準語」策定時期以前に、京都・大坂を中心とする「上方語」から「江戸語」そして「東京語」へという流れがあったのである。各地方言書が規準とすることばも十八世紀中頃に上方語から江戸語へと移行してもいるようである。
 つまり、当然のことながら「関西弁」は他の方言とは違いかつて規準のことばであったものが近世期にその位置を江戸語に譲ったことばである。それが「関西弁」というニュアンスに関係ないのかあるのか―。
 近代の文学者はこの「関西弁」をどのように考え用いたのか、それは私たちにまた時代社会にどのようにうつっていくのか、というのがシンポジウムの趣旨とおもわれるが、今回発表者が扱うのは大岡昇平のいくつかの文章である。周知のように大岡は東京の生まれ育ちである。しかし両親は和歌山出身であり、大岡自身も大学は京都、また戦前に神戸で会社員生活を送っていて、「関西弁」の空間で生活している。関西の人間ではないが旅行者でもない、近代のいわゆる〃上京者〃の第二世代として、短期間ながら生活者として「関西弁」の中に生きた作家の作品を対象にすることで、〈 近代文学のなかの 〝関西弁〟 〉を考えてみたい。
■三島由紀夫「絹と明察」論       
        木谷 真紀子(同志社大学嘱託講師)

 『絹と明察』(「群像」昭39・1~10)の取材旅行で関西を訪れた三島由紀夫は、中村光夫宛の書簡で「関西へ久々に来てみると、関西弁は全くいただけず、世態人情、すべて関西は性に合はず、外国へ来たやうです。尤も、小生純粋の江戸ッ子ではなく、祖父が播州ですから、同族嫌悪の気味があるのかもしれません」と述べている。これは、〈三代〉という江戸っ子の定義にこだわった表現であり、生涯を通して東京で生活した三島は、日常的に関西弁の内側で生活した経験がない。
 しかし三島作品には、関西のことばを話す登場人物が描かれる。その代表とも言えるのが『絹と明察』の駒沢善次郎、『豊饒の海』の月修寺門跡、また綾倉聡子であろう。後者二人は〈京ことば〉話者であり、三島が『豊饒の海』取材ノートに「京都弁」と明記していることを考え、今回は昭和二十九年に起きた近江絹糸の労働争議を扱ったモデル小説である『絹と明察』の駒沢を考察の対象としたい。
 発表では、まず実際の事件や時代背景と三島が描いた作品世界を比較する。本作の作品舞台は滋賀、京都であるが、関西人・関西弁話者は駒沢夫婦のみと言える。関西弁に対しては、常に〈他者〉であった三島にとって、関西弁とは、関西とは、いかなる存在であったのだろうか。〈地の利〉をいかして、三島が作品の舞台を何故、京都と滋賀に設定したかという点について考え、駒沢の人物像とその関西弁、作品舞台がどのように関わっているかを検証したい。
■阪神モダニズム再考
        井上 章一(国際日本文化研究センター)

 両大戦間期の阪神地方では、尖端的な文化が開花したと、よく言われる。美術、建築、音楽方面のそれなどが、これまでにもとりざたされてきた。近年は、それらを阪神モダニズムとひとくくりにすることも、多くなっている。
東京中心のモダニズム論に、反省をうながす。阪神間の山手にすむブルジョワたちも、東京と同等、あるいはそれ以上に、ゆたかな文化をはぐくんでいた。そのことを、もういちど見なおすべきだ。とまあ、そんなかまえで語られることが、すくなくない。
 しかし、あのエリアがうかびあがらせた文化を、阪神のモダニズムとよぶことに、私はためらいをおぼえる。なるほど、あの文化をうみだした地域は、阪神間に位置している。しかし、阪神の、関西の文化であったと、そう単純にはみとめがたい。
 あの地域では、二〇世紀のなかごろまで、関西言葉があまりつかわれていなかった。いや、それを見下すような風も、あったと思う。「おほほ、ざあます」階層のおばはんたちに、とりわけその傾向は、強かったろう。
もちろん、関西言葉がぬぐいさられていたわけではない。しかし、あたうかぎり、東京弁へよりそうよう、つとめられていた。そのため、東京風にねじまげられた関西言葉が、撞行していたのである。阪神モダニズムは、関西からの離脱をこころざしていた手合によってささえられていたことを、かみしめたい。