【重要】2020年度春季大会の中止について

2020年度日本近代文学会関西支部春季大会(於・大阪市立大学)につきまして、新型コロナウイルス感染症の拡大状況等をふまえて運営委員会で検討しました結果、

中止

とすることに決定いたしました。
総会につきましては、追って本サイト等にてお知らせいたします。

【重要】2020年度春季大会開催の判断について

2020年度関西支部春季大会(於・大阪市立大学)につきまして、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、状況が流動的ですので、開催予定日6月13日の1ヵ月前までに、開催か中止かを本サイトにて告知いたします

随時、本サイトをご確認くださいますよう、お願いいたします。

2019年度日本近代文学会関西支部秋季大会 企画趣旨(関西支部創設四十周年 特別企画)

「関西支部の意義と展望」
〔企画趣旨〕

 本年二〇一九年は、関西支部創設四十周年にあたる。文学研究の文化的位置が周縁化されつつある現在、文学研究者は自己の研究の進展を図るだけでなく、研究自体の意義を再検討し発信する必要に迫られている。しかしそれは、どれほど自覚されているだろうか。これは個人で考えるよりも、集団で共有した方がよい問題だ。支部の過去を振り返り、今後の研究と学会のあり方について、現状をリアルに踏まえ問題を掘り起こし議論を深めたい、というのが本企画の趣旨である。
 関西支部のために尽くしてきた四人の研究者に登壇していただき、支部活動の歴史と意義、運営上の問題点、そして創設五十周年を見据えた今後の支部像について対話形式で語っていただく。
 この対話は、文学研究の存在理由をあらためて問うことになり、学会という集団の価値を根源から問い直すことになるだろう。

2019年度日本近代文学会関西支部秋季大会 発表要旨(小特集企画)

「神戸からブラジルへー過程と着後の記録、文学ー」

〔企画趣旨〕

 一九〇八(明治四一)年にブラジル移民が開始されて、本年で一一一年になる。南米をめざす移民は神戸に集結し、そこから移民船に乗って海を渡った。一九二八年には国立移民収容所が開設され、国策としての移民事業は大規模なものになっていく。本企画は、神戸大学海港都市研究センターと共催するかたちで、ブラジル移民を描いた文学や、ブラジル移民が描いた文学叙述に焦点をあて、海を越えて国を移動する経験の内実を問い直してみたい。
 ブラジルに向け日本を発つ人々は、まず移民収容所に入所し、検疫や身体検査を受け、外国渡航に必要な基礎知識を学ぶ必要があった。船上でも大人向けの語学教育や子ども向けの補習教育が施され、移民たちの連帯感を高めるための各種行事も行われた。さらに到着後も、航海次ごとの同窓会が催されるなど、新しいコミュニティや人間関係の醸成は、船上から始まっていたといえる。無名の一市民たる移民たちの船内生活は、輸送監督による記録や、移民による「船内新聞」などの発行物に刻印されている。それらの生活記録は、彼らが表現した、あるいは彼らを表現した文学にも確実に流れ込んでいるだろう。
 そこで本企画は、まず移民船での生活経験を、記録の面から明らかにすることで、移民における移民船、あるいは海洋体験の内実を検討する。そのうえで、移民自身による文学表現から、移民船あるいは海洋体験との意味を捉え直してみたいと考えている。当然、ブラジル渡航後の生活環境がもたらした言葉や身体の変容との連続性も問われることになるだろう。
 国立移民収容所は神戸移住センターと改称され、一九七一年まで移民送出に用いられた。いうまでもなく神戸港は移民の出航地として多くの歴史と物語を生んだ地であった。一方、現代ではその送出数を越える数の日系ブラジル人が実質的な移民として日本に働き口を求めて来日している。「神戸の先」という問題系を視野に入れつつ、ブラジル移民の文学を現在進行形の問題として捉え直したい。

〔発表要旨〕

○戦後南米移住者の船上体験ー〈個別の集まり〉から〈連帯感の醸成〉へー

飯窪秀樹

 報告では、一九五二年の南米移住再開以降の南米移民が移住船内で発行した船内新聞、および移住者輸送監督による輸送報告書の内容を主な材料にして論じる。
 たとえば伊藤永之介が戦後の移住船に乗船して書いた『南米航路』は、神戸移住斡旋所における盗難事件から物語が始まる。「輸送状況報告書」にも同様の事件は報告されており、現代でも起きるような不愉快な事件が生じた斡旋所や船内で、いかに移住地到着後の過酷な開拓生活を支えあうような、移民の間の連帯意識を形成していったのかを追うことを報告の課題としたい。
 船内新聞の記述を辿ると、入植先での奮闘を喚起する記事や、船の移民に対する待遇の改善要求もあるが、それよりも移民の間の迷惑行為をただす、互いの行動を律する投書も目立つ。移民たちは乗船前のような他人の集まりではなく、同じ夢と希望を持って移住を決意した者たちの集まりであることを確認し、船の中だけでもやがて来る過酷な日々の前段階として有意義に過ごそうとする。そして将来の成功を期するためにも船内の生活を律し、自主的であることが目指され、「常識ある国際人」として互いに意識を涵養しようと提言されている。
 報告ではこのように内発的に前進的な意識が醸成された経過を、輸送監督の報告書、船内新聞、第三者の目である作家の描く移民の姿から、これらがいかに実態を捉え、また逆にフィクションだったのかを踏まえつつ論じたい。

○一九五〇年代ブラジル邦字紙における日本語文芸ー短歌を軸としてー
杉山欣也

 第二次世界大戦中の迫害と戦後の勝ち負け抗争とによって、ブラジル日本移民社会は深刻な内部対立に見舞われた。しかし一九五一年の国交回復、一九五二年の移民事業再開といったことを契機として、徐々に安定を取り戻していった。一九四六年以降創刊された邦字紙の存在は、その安定に欠かせない存在だった。そして本発表が対象とする一九五〇年代前半には、勝ち組・負け組に分かれていた各紙の淘汰が進むとともに、紙面が充実をみせる時期でもあった。その紙面には事件事故の報道のみならず、移民の生活実態をうかがうことのできるトリビアルな情報など、さまざまな要素が記載されている。同時に、各紙は文芸創作欄を持ち、移民自身による文芸作品の発表の場となっていく。
 文芸創作は移民の精神生活の拠り所といえるものだが、それは神戸出港以来の日常的な生活の労苦の積み重ねが言葉としてそこに結晶しているからである。本発表ではそのような観点から、邦字紙における各種記事や創作欄の調査結果を基礎に、現地日系社会における移民研究の蓄積をも参照して、神戸から始まるブラジル日本移民の生活が文芸創作に結晶する過程を分析する。今回はとくに再移民の始まる一九五二年前後の短歌に注目してその様相を探る。そこに一九五二年の三島由紀夫等、ブラジルを訪問した日本人作家の移民表象との差異を確認することも可能だろう。

2019年度日本近代文学会関西支部秋季大会 発表要旨(自由発表)

〔自由発表要旨〕

○古井由吉『神秘の人びと』における「神秘主義」受容

竹永知弘

 本発表では、古井由吉の後期作品『神秘の人びと』(一九九六年)を取り上げ、作家の「神秘主義」への接近を記述する。本書は『我と汝 Ich und Du』(一九二三年)で知られるユダヤ宗教思想家のマルティン・ブーバーの編著『神秘体験告白集 Ekstatische Konfessionen』(一九〇九年)に収録された修道士や修道女、信者らによる神秘体験(たとえば、「神秘的合一 unio mystica」)の告白を拾い読むという行為から成立する。
 同時代的には『神秘の人びと』はオウム真理教による一連の事件をめぐる社会的困惑への応答と読める。デビュー直後、評論家・小田切秀雄に「内向の世代」と呼称されて以来、アクチュアリティを欠いた作家と位置づけられてきた古井がこの事件に即座に反応したことは興味深い。本作により古井は「宗教とはなにか」を再定義することを試みる。
 他方、古井の経歴を鑑みれば、作家がデビュー期に親炙したオーストリアの作家、ロベルト・ムージルへの再接近と読める。古井はデビュー以前、独文学者としてムージル『愛の完成』『静かなヴェロニカの誘惑』の翻訳を行なっており、初期にはその影響が指摘されてきた。この影響関係は、作家の日本古典への接近により一度切断されるが、作家の成熟期に入り再びムージルが持ち出される点は一考に値する。ムージル再訳(岩波文庫、一九八七年)はその一因だろう。ここで作家は自らの原点に回帰することを試みている。
 以上、本発表では「同時代の文脈」と「作家の経歴」を関係づけながら『神秘の人びと』を読解していく。その両面的な読解の試みから、古井の「近代」に対する批評的態度を記述したい。

○物語をめぐる抗争ー中上健次『千年の愉楽』における「路地」の表象とその限界ー
松田樹

 中上健次の『千年の愉楽』は、一九八〇年から八二年まで断続的に連載された六本の短篇を収める連作短篇集である。作家の故郷の被差別部落を「路地」と呼ばれる神話的な世界へと昇華させた本作は、刊行直後から高い評価を得た。例えば、江藤淳は本作がオリュウノオバという産婆の記憶によって構成されている点に注目し、そこに「口承文学」の強度を読み取っていた。
 ところが、各篇の主人公である「中本の一統」の生涯は、江藤の評価とは裏腹にむしろリアリスティックな再現性を失った紋切り型の言葉によって象られている。更に、オバの語りは一統の生死を意味付ける他のナラティヴと抗争関係に置かれている。「城下町」「礼如さん」「路地の者」等の存在によってオバの語りもまた恣意的な解釈の一つに過ぎず、差別の実態はそれによる意味付けには収まらないものであることが示唆されているのだ。
 本作において中上が取った方法は、失われてゆく故郷の歴史を紋切り型の言葉によって形象化する一方で、現在の視点からそこに生きた人々の差別の体験を遡及的に物語ることは虚偽にしかなり得ないという限界を作中から内在的に指し示すことであった。実際、本作の連載時期には郷里の被差別部落はもはや解体の危機に瀕していた。本発表では、主人公らの生涯とこれを語る話者との関係性に着目し、『千年の愉楽』における「路地」の表象とその自壊について作家の故郷の被差別部落の歴史を踏まえつつ考察したい。

○保田與重郎の女性表象ーその創作観に着目してー
遠藤太良

 昭和期の思想家保田與重郎は戦前の批評においてしばしば、王朝期の女流歌人を中心とする女性について言及している。これらの女性表象はこれまで、戦時下の「母」の言説との類似が指摘され、彼の国粋性の証左の一つと見なされてきた。しかしながら、保田が女性を取り上げることで論じているのは、当時の政治体制についてというよりもむしろ文学をはじめとする芸術の創作についてである。すなわち、保田の女性表象は彼の創作観を色濃く反映しているといえよう。以上を踏まえ、本発表では、保田の女性表象を創作観という点から考察し、文学をはじめとする芸術の創作において彼がどのような見解を有していたのかを明らかにする。
 まず、『和泉式部私抄』などの著作における保田の女性表象を考察する。その後、比較対照として同時代の文学についての彼の批評を取り上げる。以上の考察により明らかとなるのは、保田が「男性」である神の声を代弁できるものとして女性を位置づけた上で、女流歌人達の作品における表現の「自然さ」を超越的な価値観を表出する理想的な創作と見なし高く評価していることである。保田のこうした創作観には、文学作品としての表現の有り様よりも作者の個性の発露や国策イデオロギーの称揚を重視する同時代の文学に対する否定的な見解が表れている。そして、こうした同時代への批判を含意している点において、彼の女性表象は体制擁護を目的とする戦時下の「母」の言説とは異なるものといえよう。

○江戸川乱歩『人間椅子』論ー椅子職人「私」における「肉体」と「精神」ー
穆彦姣

 雑誌「苦楽」の大正十四年十月号に掲載された『人間椅子』は、発表当初より一般読者から好評を博しており、乱歩作品において数少ない自他ともに認める傑作の中の一つとして数えられてきた。
 近年における『人間椅子』研究の皮切りとなったのは、作中の描写における触覚の優位性について検証した松山巖論(『乱歩と東京 1920都市の貌』PARCO、昭和五十九年)であるが、氏は本作の結末部における「書斎から逃げ出して、日本建ての居間の方へ」という佳子の行動を「西欧化される以前から培われた体性感覚」への回帰と解釈している。しかし、西洋から日本への回帰を辿ったのは果たして佳子だけなのだろうか。ホテルから佳子の家へ移される際に、作中作の語り手である椅子職人「私」はそれまで出会った異国人に対し「どんな立派な、好もしい肉体の持主であっても、精神的に妙な物足りなさを感じ」るとし、「本当の恋」の相手を日本人に限定している。この「私」における肉体と精神に対する考え方はどのように理解すべきだろうか。
 本発表は、まずゲーテやハン・ゴットフリート・ヘルダーなどが提唱した芸術論に見られる肉体と精神の関係性についての認識と、主に三島由紀夫のエッセイによって指摘された敗戦までの日本と西洋における肉体と精神への認識の相違(「肉体について」「Pocketパンチoh!」平凡出版、昭和四十四年)を確認した上で、作中作の各段階における「私」の言動と肉体に対する描写の特徴について分析し、「私」の肉体と精神の意識及びその変化について考察を行う。そこから作品全体に表象される「日本回帰」の傾向について論証したい。

2019年 日本近代文学会関西支部秋季大会 ご案内

【プログラム】

日時 二〇一九年一一月一〇日(日)午前十時~
場所 神戸大学 六甲台第二キャンパス(瀧川記念学術交流会館)
 →交通アクセスキャンパスマップ
共催 神戸大学大学院人文学研究科海港都市研究センター

■開会の辞
神戸大学大学院人文学研究科海港都市研究センター長 濱田麻矢
■自由発表
古井由吉『神秘の人びと』における「神秘主義」受容 竹永知弘
物語をめぐる抗争ー中上健次『千年の愉楽』における「路地」の表象とその限界ー 松田樹
保田與重郎の女性表象ーその創作観に着目してー 遠藤太良
江戸川乱歩『人間椅子』論ー椅子職人「私」における「肉体」と「精神」ー 穆彦姣
■小特集企画「神戸からブラジルへー過程と着後の記録、文学ー」
趣旨説明・司会 木谷真紀子
発表
・戦後南米移住者の船上体験ー〈個別の集まり〉から〈連帯感の醸成〉へー 飯窪秀樹
・一九五〇年代ブラジル邦字紙における日本語文芸ー短歌を軸としてー 杉山欣也
質疑および全体討議
■関西支部創設四十周年 特別企画「関西支部の意義と展望」
趣旨説明・司会 佐藤秀明
登壇 太田登、増田周子、木田隆文、
   斎藤理生
質疑応答
■関西支部運営委員会報告
■閉会の辞
支部長 佐藤秀明
※昼食につきまして、日曜日の午前中から開催でございますので、事前にご用意いただくと便利です。

2019年度日本近代文学会春季大会 発表要旨(自由発表)

自由発表要旨

○柳田國男における「郷土研究」の構成――ペンネーム研究を通して――
鄭悦
 本発表では、民俗学の草創期における柳田國男の「郷土研究」の構成を明らかにするために、第一期『郷土研究』誌(一九一二年三月.一九一七年二月)を取り上げる。複数のペンネームを使い分けるという彼の独特な方法を分析し、文学的要素の構造上の役割を検討し、柳田國男の初期思想の形成に新しい視点を提供したい。
 柳田國男と文学については、その美文序や紀行文、旧派和歌など文学香の高さが評価される一方、散文的な文体と奇抜な連想に富んだ論じ方が俎上に載せられることも多い。しかし、こうした民俗学者・文学者の二つの顔を結び付けて評価する中、ペンネームという象徴的な文学者行為が〈民俗誌〉という場で発生することに関する研究は、管見には入らなかった。
 そこで本発表では、第一期『郷土研究』誌上に、ペンネームによって発表された柳田國男の文章に焦点を当てて考察する。現段階の調査で、「川村杳樹」が女性、「久米長目」が山人、「尾芝古樟」が「柱」(神木)に関する内容、というように、ペンネームと主題に密接な関係が存在し、〈自己命名〉と〈郷土事象の命名〉が同時に成立していることが確認できた。〈もう一人の自分〉を次々に作りつつ、自らが編集する雑誌に様々な文章を寄稿した柳田國男とはどのような人物だったのだろうか。ペンネームと発表文章の関連性はもちろん、過去の作品との関わりやペンネーム間の交渉などを、コンテクストに於いて分析する。
 柳田國男が使用したペンネームは十六にものぼる(郷土研究社・郷土研究編輯所・郷土会(一九七六)、『復刻版 郷土研究 別冊』、名著出版)。この全てを駆使して、学問の作業を劇的に展開してきた『郷土研究』時代の柳田國男、このような視点から彼の〈文学的〉な出発点を確認し、再評価することを本発表の目的としたい。

○尾崎翠「こほろぎ嬢」論――分身共同体としての語り手――
山根直子
 尾崎翠が昭和七年に発表した「こほろぎ嬢」は、「私たち」という一人称複数形の特殊な語り手を用いている。従来「私たち」の正体は謎に包まれていたが、本発表は本文の精読を通し、前作「歩行」と本作の一か月後に発表された「地下室アントンの一夜」に登場する小野町子と土田九作であることを明らかにする。「私たち」(九作/町子)は本作にも登場する実在の男性詩人シャープと彼のもう一つの人格であった女性詩人マクラウドの分身関係を模した作者翠の分身共同体である。翠が典拠とした薄田泣菫や木村毅の論考に拠れば、シャープは自分の心が男性の時はシャープ、心が女性の時はマクラウドとして筆を執り、この二つの人格が「合作」を行なうこともあった。町子は翠の心の中の女性、九作は男性の部分の分身であり、「歩行」から「地下室アントンの一夜」で町子から九作へ語りの主体が交代することはシャープ/マクラウドの人格の交代による創作方法、本作の語り手「私たち」は男女二つの人格が「合作」する創作方法を模した構想と考えられる。泣菫や木村は既存の男性中心的な文学を乗り越え「芸術は性を超越すべきものである」と主張し、その理想形としてシャープ/マクラウドを紹介する。翠はこれに触発され、男女の性を併せ持つシャープ/マクラウドを模した語り手「私たち」を用いたと考えられる。さらに、本作は他作品の登場人物が作者を語るというフィクションと現実の上下関係の転覆が描かれている。これも従来の男性中心的なピグマリオン・コンプレックスの構造を持つ小説へのアンチテーゼであり、本作は新たな文学を模索する翠の果敢な試みが表れている作品と言える。

○堀辰雄における佐藤春夫――『車塵集』の受容を中心に――
劉娟
 堀辰雄(一九〇四年十二月~一九五三年五月)の中国古典への関心は、昭和十五年(一九四〇年)頃に始まり年齢を重ねるごとに強まり、彼の亡くなるまで続いた。小山正孝氏(「断片」『文芸』一九五七年二月号)は、「堀さんが、もし、もっと永く生きていられたら――というより、晩年の十年間も、執筆が続いていたら――中国のこともお書きになったのではないかと思う。」と述べている。確かに堀の作品には中国の古典をテーマとしたものはほとんど見られない。わずかにエッセイ「一琴一硯の品」(「甲鳥」 一九四一年十一月 後に「我思古人」と改題)で堀が手に入れた幾つかの中国の蔵書印について触れているだけである。しかしその一方で、堀は五つの中国古典ノートを残している。
 一方、堀の師佐藤春夫(一八九二年四月~一九六四年五月)は、自ら「支那趣味愛好者」の「最後の一人」(「からもの因縁」 『定本 佐藤春夫全集 第二二巻』 一九九九年八月 臨川書店)だと称し、中国文学関係の作品を夥しく残していた。殊に、彼は『車塵集』(一九二九年九月 武蔵野書院)という中国閨秀詩訳詩集を以て、漢詩の「継承と先鞭」(江新鳳 「佐藤春夫『車塵集』の原典とその成立(其の二)」 『汲古』 一九九二年六月)の役割を同時に果たし、第一人者となった。
 堀夫人の記憶によると、堀は佐藤の『車塵集』によって、「中国の詩の美しさを知った」(堀多恵子 「ひとこと」『杜甫詩ノオト』所収 一九七五年十二月 木耳社)。このように、堀晩年の中国古典への関心において、『車塵集』が大きな役割を果たしていたことは間違いない。堀晩年の中国古典への関心において、『車塵集』は具体的にどのような役割を果たしていたか。今回の発表は、そのことを中心に考えていきたい。

2019年度日本近代文学会関西支部春季大会 発表要旨(小特集企画)

■小特集企画「日本浪曼派の戦後と西日本発のリトルマガジン」

〔趣旨〕
敗戦後日本における文学同人誌の群生は、北九州で創刊された詩誌「鵬/FOU」に始まる。同時期に現れた数多の同人誌のなかでもとりわけ異彩を放つのが、一九四七年に神戸で創刊された「VIKING」である。竹内勝太郎に私淑する富士正晴・野間宏・竹之内静雄の「三人」グループを中心に創刊されたこの雑誌には、直前に終刊となった「光耀」の島尾敏雄・庄野潤三・林富士馬が参加した。伊東静雄に私淑する「光耀」グループの合流によって、本誌は戦後における日本浪曼派の伏流を支える雑誌となった。
同じころ、北川晃二を中心に、戦中の「こをろ」の後継誌として九州発の雑誌「午前」が創刊された。谷川雁、大西巨人ら九州出身の若手文学者のほかに、檀一雄、佐藤春夫、旧「光耀」の面々(島尾・庄野・林・三島由紀夫ら)を執筆陣に擁している。本誌もまた、政治的立場を異にする文学者たちを包摂しながら、日本浪曼派の伏流を支えた戦後雑誌である。
敗戦直後より伏流していた日本浪曼派の営みは、檀一雄を中心に創刊された雑誌「ポリタイア」に受け継がれる。近畿大学・世耕政隆の経済的な支えを得て刊行されたこの雑誌には、林富士馬や真鍋呉夫ら、上記の戦後雑誌の出身者らが多く名を連ねた。のみならず、全共闘運動の時代に創刊された本誌は、保田與重郎を筆頭とする日本浪曼派の言説を、戦後世代の立場から再評価する機運を醸成した。
このように、関西から九州にかけて叢生した諸々のリトルマガジンに目を向けるとき、興味深いのは、それらが敗戦に伴って解体した日本浪曼派の受け皿となったという事実である。本企画では「光耀」「午前」「VIKING」から「ポリタイア」へと至る系譜に注目し、文学史的にはほとんど消去されている日本浪曼派の戦後を、西日本におけるリトルマガジンとその人脈を検証することによって可視化する。それを通じて、日本浪曼派の文学精神が戦後という時代といかに対峙したかを明らかにしたい。

〔発表要旨〕
○戦後神戸のリトルマガジンと、島尾敏雄・庄野潤三など――「光耀」「VIKING」「タクラマカン」――
西尾宣明

島尾敏雄は、復員直後に庄野潤三とともに神戸で「光耀」を創刊する。第一輯の「編輯後記」で、この雑誌が戦前の「まほろば」の系譜に属することと、林富士馬の人脈から三島・庄野・大垣圀司が集ったことを記し、刊行の趣旨を「いかなる世にも芸術の純美の血統たらんこと」と庄野は宣言している。「日本浪曼派」とのつながりをもち、いわゆる左翼的潮流とは一線を画していたことがわかる。また、掲載された小説には戦後性が濃厚に読みとれる。三輯に掲載された庄野『居眠り王様』・島尾「夢中市街」を検証しながら、三輯までのこの雑誌の成り立ちと特性を考えてみる。発表はこれが中心となる。
一九五〇年ごろまでの「VIKING」の、同人たちの動向やその関係については、「中尾務の 島尾敏雄 富士正晴」(「脈」八四号、二〇一五年五月)に詳しい。一方で、創刊号「編輯記」で富士は「どちらの方角へ出掛けるのか(略)しばらくたてば僕等にも判ってくるだろう」と雑誌の性格を記している。島尾など同人たちの文学的営為から、初期「VIKING」の性格を探る。
最後に、島尾と神戸市外大に学生たちによる「タクラマカン」を紹介しておきたい。この雑誌は、第一期が一号(一九五〇年二月一日)~二二号(一九五四年三月一〇日)まで、第二期として、一九九〇年四月に二三号が刊行され現在五八号まで続いている。その同人たちの名が初期「VIKING」の維持会員名簿にも認められ、同人たちの文は、当時を知る貴重な証言ともなっている。

○「日本浪曼派」から「午前」への接続と断絶
長野秀樹
第一次「午前」が創刊されるのは昭和二一年六月、編集人は北川晃二、発行所は南風書房である。北川や南風書房が商業雑誌発行に関係するのは戦後になってからのことであり、そうした意味では「日本浪曼派」と「午前」を直截的に両者が繋ぐわけではない。「日本浪曼派」からの連続を考えようとすれば、補助線が必要になる。補助線の一本は檀一雄。もう一本は眞鍋呉夫。更に「こをろ」を実質的に主宰した矢山哲治(すでに故人ではあるが)。
一方で、北川が雑誌創刊に果たした役割は大きく、創刊号に掲載された「逃亡」や「戦野行旅」(第二巻四号~三巻二号)など中国戦線に取材した作品など、戦争を体験した世代の新時代へのスタートという戦後雑誌としての特徴を、それらはよく表している。
もちろん、両者が二者択一的に整理されるわけではないが、「日本浪曼派」同人としての檀の人脈が誌面作りに大きな影響を与えたことは間違いない。佐藤春夫、中谷孝雄、芳賀檀、そして三島由紀夫。こうした名前が目次に載るのである。また、矢山の私淑した文学者の一人が旧制福岡高校の先輩後輩にあたる檀であり、眞鍋もまた、「こをろ」の同人であった。その三本の補助線と編集人としての北川が絡み合う形で「午前」は福岡市で生まれた。北川が残した証言や、花田俊典『清新な光景の軌跡――西日本戦後文学史』(「西日本新聞」)などに拠りながら、その「絡み合う形」を考えたい。

○「ポリタイア」と戦後のロマン派
近藤洋太
私が東京の大学に入ったのは、一九六九年、全共闘運動が盛んな時期だった。ある時、先輩から渡された「遠くまで行くんだ……」という雑誌に瞠目した。それは、既成の新左翼の雑誌とは違う、自分たちの言葉で世界を語ろうとした雑誌だった。そのなかの新木正人(一九四六―二〇一六)の「更科日記の少女」は、私を「日本浪曼派」、保田與重郎にいざなった。大学を卒業する間際、眞鍋呉夫の紹介で檀一雄が主宰する「ポリタイア」に加えてもらった。そこでロマン派、その近傍にいた人たち、戦後、ロマン派に親近した人たちと出会った。私がそこで知ったロマン派は、想像していたよりずっとおだやかで、また激しかった。古木春哉(一九三〇―二〇〇四)の「ポリタイアに拠る」は、戦後のロマン派の復権を言った。彼は「ポリタイア」以降、書かなかった。七十歳を過ぎて「ポリタイア」の再刊を言った、書かないことにじれていた。ロマン派の核には、こうした志向があった。谷崎昭男(一九四四―)は、保田與重郎の晩年の十数年間、彼の身近にいた人で、谷崎氏の文業の多くは保田の文学の顕彰にあてられている。なかでも、近年刊行された『保田與重郎――吾ガ民族ノ永遠ヲ信ズル故ニ』は、今後、保田與重郎を研究するものにとって、必読のものと言えるだろう。私は、今日の文学の表側にはなかなか現れない、けれども決して無視することのできない、彼らについて語りたいと思う。

○コメンテーター
越水治
〈略歴〉一九五一年、大阪生まれ。立命館大学卒。三人社社主。出版社歴約三五年。前職の「不二出版」では、富士正晴・野間宏・桑原静雄の詩雑誌「三人」や戦後福岡で発行された「午前」「文化展望」、また「サークル村」「ヂンダレ」などサークル運動の関係資料の復刻版を担当。定年後の二〇一二年一月に「三人社」を創設し、「月刊にひがた」や「月刊西日本」など戦後地方雑誌の発掘に関心を抱く。その他の復刻出版物に、戦後の詩雑誌である初期「VIKING」「現代詩」「わが青春の記録」などがある。