2019年度日本近代文学会関西支部春季大会 発表要旨(自由発表)

自由発表要旨

○柳田國男における「郷土研究」の構成――ペンネーム研究を通して――
鄭悦
 本発表では、民俗学の草創期における柳田國男の「郷土研究」の構成を明らかにするために、第一期『郷土研究』誌(一九一二年三月~一九一七年二月)を取り上げる。複数のペンネームを使い分けるという彼の独特な方法を分析し、文学的要素の構造上の役割を検討し、柳田國男の初期思想の形成に新しい視点を提供したい。
 柳田國男と文学については、その美文序や紀行文、旧派和歌など文学香の高さが評価される一方、散文的な文体と奇抜な連想に富んだ論じ方が俎上に載せられることも多い。しかし、こうした民俗学者・文学者の二つの顔を結び付けて評価する中、ペンネームという象徴的な文学者行為が〈民俗誌〉という場で発生することに関する研究は、管見には入らなかった。
 そこで本発表では、第一期『郷土研究』誌上に、ペンネームによって発表された柳田國男の文章に焦点を当てて考察する。現段階の調査で、「川村杳樹」が女性、「久米長目」が山人、「尾芝古樟」が「柱」(神木)に関する内容、というように、ペンネームと主題に密接な関係が存在し、〈自己命名〉と〈郷土事象の命名〉が同時に成立していることが確認できた。〈もう一人の自分〉を次々に作りつつ、自らが編集する雑誌に様々な文章を寄稿した柳田國男とはどのような人物だったのだろうか。ペンネームと発表文章の関連性はもちろん、過去の作品との関わりやペンネーム間の交渉などを、コンテクストに於いて分析する。
 柳田國男が使用したペンネームは十六にものぼる(郷土研究社・郷土研究編輯所・郷土会(一九七六)、『復刻版 郷土研究 別冊』、名著出版)。この全てを駆使して、学問の作業を劇的に展開してきた『郷土研究』時代の柳田國男、このような視点から彼の〈文学的〉な出発点を確認し、再評価することを本発表の目的としたい。

○尾崎翠「こほろぎ嬢」論――分身共同体としての語り手――
山根直子
 尾崎翠が昭和七年に発表した「こほろぎ嬢」は、「私たち」という一人称複数形の特殊な語り手を用いている。従来「私たち」の正体は謎に包まれていたが、本発表は本文の精読を通し、前作「歩行」と本作の一か月後に発表された「地下室アントンの一夜」に登場する小野町子と土田九作であることを明らかにする。「私たち」(九作/町子)は本作にも登場する実在の男性詩人シャープと彼のもう一つの人格であった女性詩人マクラウドの分身関係を模した作者翠の分身共同体である。翠が典拠とした薄田泣菫や木村毅の論考に拠れば、シャープは自分の心が男性の時はシャープ、心が女性の時はマクラウドとして筆を執り、この二つの人格が「合作」を行なうこともあった。町子は翠の心の中の女性、九作は男性の部分の分身であり、「歩行」から「地下室アントンの一夜」で町子から九作へ語りの主体が交代することはシャープ/マクラウドの人格の交代による創作方法、本作の語り手「私たち」は男女二つの人格が「合作」する創作方法を模した構想と考えられる。泣菫や木村は既存の男性中心的な文学を乗り越え「芸術は性を超越すべきものである」と主張し、その理想形としてシャープ/マクラウドを紹介する。翠はこれに触発され、男女の性を併せ持つシャープ/マクラウドを模した語り手「私たち」を用いたと考えられる。さらに、本作は他作品の登場人物が作者を語るというフィクションと現実の上下関係の転覆が描かれている。これも従来の男性中心的なピグマリオン・コンプレックスの構造を持つ小説へのアンチテーゼであり、本作は新たな文学を模索する翠の果敢な試みが表れている作品と言える。

○堀辰雄における佐藤春夫――『車塵集』の受容を中心に――
劉娟
 堀辰雄(一九〇四年十二月~一九五三年五月)の中国古典への関心は、昭和十五年(一九四〇年)頃に始まり年齢を重ねるごとに強まり、彼の亡くなるまで続いた。小山正孝氏(「断片」『文芸』一九五七年二月号)は、「堀さんが、もし、もっと永く生きていられたら――というより、晩年の十年間も、執筆が続いていたら――中国のこともお書きになったのではないかと思う。」と述べている。確かに堀の作品には中国の古典をテーマとしたものはほとんど見られない。わずかにエッセイ「一琴一硯の品」(「甲鳥」 一九四一年十一月 後に「我思古人」と改題)で堀が手に入れた幾つかの中国の蔵書印について触れているだけである。しかしその一方で、堀は五つの中国古典ノートを残している。
 一方、堀の師佐藤春夫(一八九二年四月~一九六四年五月)は、自ら「支那趣味愛好者」の「最後の一人」(「からもの因縁」 『定本 佐藤春夫全集 第二二巻』 一九九九年八月 臨川書店)だと称し、中国文学関係の作品を夥しく残していた。殊に、彼は『車塵集』(一九二九年九月 武蔵野書院)という中国閨秀詩訳詩集を以て、漢詩の「継承と先鞭」(江新鳳 「佐藤春夫『車塵集』の原典とその成立(其の二)」 『汲古』 一九九二年六月)の役割を同時に果たし、第一人者となった。
 堀夫人の記憶によると、堀は佐藤の『車塵集』によって、「中国の詩の美しさを知った」(堀多恵子 「ひとこと」『杜甫詩ノオト』所収 一九七五年十二月 木耳社)。このように、堀晩年の中国古典への関心において、『車塵集』が大きな役割を果たしていたことは間違いない。堀晩年の中国古典への関心において、『車塵集』は具体的にどのような役割を果たしていたか。今回の発表は、そのことを中心に考えていきたい。

2019年 日本近代文学会関西支部春季大会 ご案内

【プログラム】
・日時 2019年6月8日(土)12時~
・場所 奈良女子大学 S235教室(文学系S棟2階)
・共催 奈良女子大学日本アジア言語文化学会
交通アクセスキャンパスマップ

■開会の辞
奈良女子大学研究院人文科学系教授(文学部長) 野村鮎子

■自由発表
・柳田國男における「郷土研究」の構成――ペンネーム研究を通して―― 鄭悦
・尾崎翠「こほろぎ嬢」論――分身共同体としての語り手―― 山根直子
・堀辰雄における佐藤春夫――『車塵集』の受容を中心に―― 劉娟

■小特集企画「日本浪曼派の戦後と西日本発のリトルマガジン」
○趣旨説明・司会 梶尾文武・白方佳果
○発表
・戦後神戸のリトルマガジンと、島尾敏雄・庄野潤三など――「光耀」「VIKING」「タクラマカン」―― 西尾宣明
・「日本浪曼派」から「午前」への接続と断絶 長野秀樹
・「ポリタイア」と戦後のロマン派 近藤 洋太
○コメンテーター 越水治
○質疑および全体討議

■閉会の辞
支部長 佐藤秀明

■総会
※総会終了後、奈良女子大学文学系S棟1階大学ラウンジにて懇親会を開催します。会費は5000円(学生・院生3000円)の予定です。奮ってご参加ください。

2019年度 関西支部春季大会 研究発表募集

日本近代文学会関西支部では、2019年度春季大会における自由研究発表を募集致します。支部会員の皆様の積極的なご応募をお待ちしております。

  • 開催日 2019年6月8日(土)
  • 会場 奈良女子大学
  • 応募締切 2019年2月10日(日)必着
  • 応募書類 発表題目、要旨(600字程度)、連絡先(電話番号、メールアドレス)
  • 発表時間 30分程度
  • 送付先 日本近代文学会関西支部事務局

〒602ー8580
京都市上京区今出川烏丸東入ル
同志社大学 日本語・日本文化教育センター
弘風館505 木谷真紀子個人研究室内

  • お問い合わせ kindaikansai[a]gmail.com  ※[a]を@に読みかえてください。

2018年 日本近代文学会関西支部秋季大会 講演

○大正震災後、関西文芸の海洋体験
根川 幸男
〈講師プロフィール〉
 一九六三年大阪府生まれ。サンパウロ大学哲学・文学・人間科学部大学院修了。博士(学術)。ブラジリア大学文学部外国語・翻訳学科准教授を経て、現在、国際日本文化研究センター機関研究員。主要著書:『ブラジル日系移民の教育史』(みすず書房、二〇一六)、『越境と連動の日系移民教育史―複数文化体験の視座』(ミネルヴァ書房、二〇一六、井上章一との共編著)、Cinqüentenário da Presença Nipo-Brasileira em Brasília.(FEANBRA, 2008, 共著)、その他。

2018年 日本近代文学会関西支部秋季大会 発表要旨

〔自由発表要旨〕
○宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」論――雑誌『児童文学』が与えた視座――

服部峰大
 昭和七年三月、文教書院から発刊された雑誌『児童文学 第二冊』に掲載された宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」は、「ありうべかりし賢治の自伝」と呼ばれ、「雨ニモマケズ」に代表される賢治の思想を重ねて読まれて来た。「グスコーブドリの伝記」には、その前稿として「グスコンブドリの伝記」があり、この改稿により、主人公が自己中心的偉人から、他者の為の偉人に変更されたとの指摘が既になされている。
 本発表では、ブドリの「笑い」を中心に、掲載誌である『児童文学』の編集方針が、本作の改稿にいかなる影響を与えたのかについて考察したい。
 清水正は、ブドリと百姓の断絶を指摘し、ブドリの自己認識を「〈理想と使命〉に燃える〈立派な人間〉」とし、その自己認識は「作者によっても保障されている」としている。しかし、作者はブドリの自己認識を肯定していたのだろうか。
 確かにブドリと百姓の間に断絶は存在している。だが、ブドリは本当に、そのことに最後まで無自覚だったのか。改稿後、書き加えられた「楽しい五年間」、ブドリが死を決意する要因の一つとなる「笑い」に注目し、改稿前後を再検討することで、グスコーブドリを批判的に捉える視点の存在を明らかにする。
 では、なぜこのような改稿がなされたのか。掲載誌である雑誌『児童文学』は、「純粋童話、詩的童話」を合言葉に、子供向けの童話を批判していた。努力や修養を主題に据えた伝記物に注目が集まる中、「グスコーブドリの伝記」には、それら既存の児童文学を批判する読みが内在していたのである。
○野上弥生子『台湾』の視座――日本人作家の視察と理蕃政策―
渡邊ルリ
 野上弥生子は一九三五年十月、始政四十年記念博覧会開催中の台湾を総督府政務長官夫人平塚茂子の招きで訪れ、紀行文『台湾』(『改造』一九三六・四~五/『朝鮮・台湾・海南諸港』一九四二・八)を発表した。総督府長官邸到着の翌朝、弥生子が原住民族を知るため全島一周を願い出たことにより、総督府は新たなスケジュールを用意し、巴達岡・花蓮・大武・霧社等での原住民との面会を設定した。霧社事件から五年後、埔里で整列した「霧社蕃」の人々を見せられた弥生子は、事件の場所や生活の見学を新たに求め、官憲側に味方したパーラン社を訪問している。
 原住民に関する弥生子の見解と想像は、官憲側から与えられた情報をもとに展開するが、その発言はさらに、同行した文教局の河崎寬康によって批判される(『台湾時報』一九三六・二)。弥生子の言説には無自覚的な原住民族への優越意識を含むエキゾティシズムが見られるが、その一方で弥生子は、芸術と教育について自由主義的感覚を持ち、原住民の文化保存、経済生活の変化を「正しく」導く必要、内地人の「偉さ」を植え付ける国粋主義的教育への懸念に加え、警察による原住民教育の継続を疑問視する見解を発言していた。これは理蕃政策に沿って官憲が弥生子の視察に期待したものと、逆行していたのである。
 本発表では、『台湾日日新報』『台湾愛国婦人新報』等を参照しつつ、『台湾』における弥生子の視座が、理蕃政策の影響下にありつつそれを超える要素を持つことを検証する。それは第一に、弥生子の文化・教育に対する感性であり、第二に、原住民知識人の描写が、語り手(弥生子)の優越意識による人間洞察の限界を示しながらも、その複雑な内面を読者に感知させる点である。
○「龍山寺の曹老人」論――日本統治期台湾における探偵小説と台湾民俗保存活動――
辻明寿
 金関丈夫(一八九七~一九八三)は台北医学専門学校助教授として来台し、終戦まで台北帝国大学医学部教授をつとめた。一九四一年に池田敏雄等と共に『民俗台湾』を創刊、台湾の民俗を研究する傍ら、台湾で最初の本格的探偵小説『船中の殺人』や「龍山寺の曹老人シリーズ」等を日本語で執筆した。
 「龍山寺の曹老人シリーズ」に関する先行研究では金関が探偵小説というジャンルの特性から台湾人に対する教育的な意味をすべり込ませているという指摘や、曹老人の日本帝国の言説に寄り添った説教は、作者である金関が発表媒体である『台湾公論』のテイストを意識したものだったという指摘がある。
 日中戦争勃発後、台湾総督府は皇民化運動を開始し、台湾の既存の宗教に対する多くの改革を行い、台湾独自の宗教儀式は抑圧されていった。龍山寺も曹洞宗の末寺となり、教育事業等を通じて台湾民衆の皇民化をすすめていた。
 しかし、「龍山寺の曹老人シリーズ」では日本帝国が推進する皇民化運動は描かれず、当時抑圧されていたはずの台湾独自の宗教儀式が描かれている。金関は『民俗台湾』において民藝紹介をしつつ、同時に目に見えない文化の保存の重要性を訴え、「人間の気風の良さ」の保存の重要性を説いていた。「龍山寺の曹老人シリーズ」において、民藝紹介では描けなかった当時の台湾人の信仰の形式や気風を小説という形式を用いて保存しようとしていたと考えられる。

2018年 日本近代文学会関西支部秋季大会 ご案内

【プログラム】
日時 2018年11月10日(土)13時〜
場所 花園大学 無聖館5階・無聖館ホール
 →交通アクセスキャンパスマップ
■開会の辞
花園大学学長 丹治光浩
■研究発表
・宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」論――雑誌『児童文学』が与えた視座―― 服部峰大
・野上弥生子『台湾』の視座――日本人作家の視察と理蕃政策―― 渡邊ルリ
・「龍山寺の曹老人」論――日本統治期台湾における探偵小説と台湾民俗保存活動―― 辻明寿
■講演
大正震災後、関西文芸の海洋体験 根川幸男
■閉会の辞
支部長 浅子逸男
※総会終了後、花園大学「ふるーる」にて懇親会を開催します。会費は5000円(学生・院生3000円)の予定です。奮ってご参加ください。

2018年日本近代文学会関西支部春季大会 発表要旨

■シンポジウム「更新される〈明治〉」
〔趣旨〕

 二〇一八年は、明治維新(あるいは戊辰戦争)から数えて一五〇周年に当たる。政府は、「明治以降の歩みを次世代に遺すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要なこと」――として、官民を挙げた顕彰活動につとめている。そもそも歴史とは、「現在と過去との絶え間ない対話である」(E・H・カー)とすれば、〈明治〉という「過去」は、「現在」の要請において、様々に解釈され、意味づけられてきたといえる。その時々において、日本近代文学はどんな役割を果たしたのだろうか。
 たとえば、同じく生誕一五〇周年を迎える夏目漱石が、「維新後四五十年」を振り返って、「現代日本の開化は皮相上滑りの開化である」と喝破したのは一九一一(明治四四)年のことである。その数年後、明治維新から五〇周年にあたる一九一八年には、芥川龍之介の「開化期もの」と呼ばれる作品群が登場する。そして、その五〇年後には、政府による大々的な「明治百年記念式典」(一九六八年)が催され、その直前には、『産経新聞』紙上で、司馬遼太郎『坂の上の雲』の連載が始まっていた。『思想の科学』や『中央公論』誌上を賑わせていた明治維新をめぐる活発な議論も忘れることはできない。私たちの歴史地層には、こうした〈明治〉にまつわる共同記憶が埋め込まれているのだろうか。
 むろん〈明治〉は、五〇年周期以外にも必要に応じて都合よく召喚された。満州事変以後、高唱されるようになった「昭和維新」(第二維新)は、いうまでもなく明治維新をトレースしたものだし、林房雄、島崎藤村、保田與重郎などの〈明治〉へのコミットも、なにがしかの因果関係をもつだろう。戦後、明治百年記念祭の委員を務めた林房雄は、三島由紀夫との対談(『対話・日本人論』一九六六)のなかで、「明治を体験的には知らないのだから郷愁のもちようがない」と述べつつも、「民族の核心的性格」による「巨大なエネルギー」の「爆発」こそが明治維新だったと力説している。こうした〈明治〉への熱量は、『奔馬』(一九六七~一九六八)で昭和の神風連を描いた三島由紀夫にも共有されていたに違いない。
 そして、二〇一八年・現在はどうなのか。その時々の歴史状況をふまえつつ、〈明治〉を主題化した作家やテクストを比較対照することで、それぞれの時代の文化的無意識や文学の果たした役割をあぶりだしてみたい。
〔発表要旨〕
○芥川龍之介の江戸と明治――奠都五十年言説の中で――

奥野久美子
 明治五十年にあたる一九一七(大正六)年をどのように迎えるかについては、明治が大正にあらたまる前から議論され、奉祝事業案が出されていた。迎えた一九一七年、春に上野公園では奠都五十年奉祝博覧会が開かれ、奠都の道行をたどる東海道のジオラマが注目を集め、駅伝の嚆矢とされる「奠都記念マラソン・リレー」も開催された。秋には三越で明治風俗展覧会も催された。また二度目の東幸が行われた一八六九年から五十年にあたる一九一九(大正八)年五月には、七日に皇太子(昭和天皇)成年式、九日に奠都五十年祭と、盛大な祝賀行事が続いた。
 このような、明治を回顧し新時代を展望する時代風潮の中、芥川龍之介は「或日の大石内蔵之助」「戯作三昧」(大正六年)、「世之介の話」「枯野抄」(大正七年)などの江戸ものと同時に、「開化の殺人」(大正七年)、「開化の良人」(大正八年)という開化期ものを発表した。処女作「老年」(大正三年)で、江戸と近代のはざまに佇む老人を描いた芥川は、江戸と明治という二つの時代が「美しい調和を示していた」(「開化の良人」)開化期に強い関心を寄せ続けた。本発表では、その生育環境にも影響された芥川の中の〈江戸〉について考えつつ、この時期の芥川作品、特に開化期ものを、奠都五十年言説の中であらためて読み直すことを試みたい。
○〈明治維新百年祭〉が呼び起こしたもの――『大東亜戦争肯定論』と戦後価値の揺らぎ――
内藤由直
 一九六〇年代、竹内好や桑原武夫の呼びかけによって惹起した〈明治維新百年祭〉を巡るカンパニアは、明治期を中心とした近代日本の歩みを再検討し、新たに評価し直そうとする機運を高めた。『思想の科学』や『朝日新聞』、『歴史学研究』などの雑誌・新聞が論争の場を提供し、文学者や歴史学者が入り乱れての議論が展開されたのである。
 なかでも、『中央公論』連載後に刊行された林房雄『大東亜戦争肯定論』(番町書房 一九六四~五年)は、近代日本の歴史を「東亜百年戦争」という独創的な認識枠組みの中で肯定的に評価したことで、物議を醸したものである。『大東亜戦争肯定論』の眼目は、一九四五年の敗戦に至る近代日本の一連の戦争過程を、植民地解放闘争として位置づけることにあった。これに対して、近代日本の戦争を帝国主義時代の侵略戦争と見る議論や、GHQが敷衍した歴史観に依拠して軍国主義暴走の経緯を批判的に捉える反論などが現れ、喧々囂々たる様相を呈したのである。
 当時の議論を読み返すと、竹内たちの企図した百家争鳴が、確かに実現したように思われる。それでは、論争の果てに、近代日本のどのような問題が解決され、何が課題として残されたのだろうか。また、カンパニアの底意には、そもそもいかなる文学的閉塞の打開が意図されていたのであろうか。
 本発表では、『大東亜戦争肯定論』を中心に据えて、近代日本の歴史を更新しようとした一九六〇年代の議論を振り返りながら、〈明治維新百年祭〉カンパニアの目的と到達点を見極めていく。その上で、論争の係争点に垣間見える戦後文学思想の揺らぎを剔抉したい。
○三島由紀夫がまなざす明治――政治とエロスのあわい――
有元伸子
 「文化概念としての天皇」を言挙げした一九六〇年代後半の三島由紀夫は、義を開顕するために死を恐れず行動した者たちの系譜として、明治維新前後の大塩平八郎、吉田松陰、西郷隆盛らを召喚する(「革命哲学としての陽明学」)。一方で三島は、自身の思想的姿勢として、バタイユを援用しつつ、「無理にでも絶対者を復活」させ、「死に至るまで快楽を追求して」「エロティシズムを完成」するのだとも述べる(古林尚との対談「三島由紀夫最後の言葉」)。
 それは天皇に対する一方的な恋闕の情であるとともに、昭和神風連を目指した「奔馬」の主人公・飯沼勲がテロ決行による瀕死の仲間との別れを甘美に夢想したような、男性同士のホモエロティシズムを濃密にまとったものでもあるだろう。三島は、西郷が親友の勤皇僧・月照とともに薩摩の海に入水したものの一人生き残り「太虚」を垣間見た神秘体験こそが、西南の役の「無償の行動」を促す原動力となったとも解説する。
 ところで三島は、一九六八年に、明治百年記念芸術祭のために文化庁から委嘱されてバレエ台本「ミランダ」を書く。自身の代表的戯曲「鹿鳴館」と同じ明治一九年秋の東京を舞台に、イタリアのチャリネ大曲馬団の来日公演に材をとり、「欧化主義と日本主義の対立融合といふ明治維新の課題」を「恋愛心理の表現」により描いた作品である(日生劇場プログラム)。
 天皇への恋闕、男同士のホモエロティシズムと男女の恋愛劇。本発表では、明治という時代に向けられた三島のまなざしを、政治とエロスのあわいから考えてみたい。
○明治維新五〇年、六〇年の記憶と顕彰――一九一七年、一九二八年の政治文化――
高木博志
 今年は、明治維新一五〇周年である。もっとも明治維新の記憶や語られ方は、明治、昭和とのちの時代の変化にともなって、また語り手の立場によっても多様である。
 一八六七年(慶応三)一二月九日の王政復古では、「神武創業」が理念にかかげられた。古代の天皇親政が理想である。しかし「明治維新」は、薩長など勝ち組のものであって、会津・仙台など負け組の「賊軍」にとっては、屈辱の記念碑であった。明治初年に会津藩戦死者の死体は放置され、一八八九年(明治二二)憲法発布の「大赦」で戊辰戦争「賊軍」の罪は許された。薩長から東北諸藩まで、はじめて天皇のもとで「臣民」として平等とみなされた。
 こうして薩長の新政府と「賊軍」とされた幕府や会津・仙台などの東国との明治維新観の分裂から、一八八九年の大日本帝国憲法発布にともない「臣民」となり、日清・日露戦争を契機とする天皇制に包摂される国民が成立した。
 戊辰戦争五〇年の一九一七年(大正六)ころには戊辰戦争を実際に体験した世代は亡くなり、全国の地方城下町においても幕藩制以来の旧藩主に代わって、皇室の権威が地域社会を覆ってゆく。戦争体験者の喪失と、そのリアリティの希薄化、歴史化の状況は、戦後七〇年を過ぎ、アジア・太平洋戦争の経験者が少なくなった現代と似ている。
 一九二八年(昭和三)は、戊辰戦争から数えて満六〇年で、戊辰の還暦であった。そして昭和大礼と重なった。前年の金融恐慌、張作霖の爆殺事件と、泥沼の戦争が始まる時代閉塞のなかで、かつての明治維新や「明治大帝」といった、「近代化」の起点が顕彰された。

2018年 日本近代文学会関西支部春季大会 ご案内

【プログラム】
日時 2018年6月2日(土)12時30分~
場所 京都大学 吉田キャンパス 吉田南構内 京都大学大学院人間・環境学研究棟 地階大会議室
交通アクセスキャンパスマップ
■開会の辞
京都大学大学院人間・環境学研究科研究科長 杉山雅人
■シンポジウム
○趣旨説明・司会 ホルカ・イリナ、黒田俊太郎、山本歩
○発表
・芥川龍之介の江戸と明治――奠都五十年言説の中で―― 奥野久美子
・〈明治維新百年祭〉が呼び起こしたもの――『大東亜戦争肯定論』と戦後価値の揺らぎ―― 内藤由直
・三島由紀夫がまなざす明治――政治とエロスのあわい―― 有元伸子
・明治維新五〇年、六〇年の記憶と顕彰――一九一七年、一九二八年の政治文化―― 高木博志
○質疑および全体討議
■閉会の辞
支部長 浅子逸男
■総会
※総会終了後、本部構内「カフェレストラン カンフォーラ」にて懇親会を開催します。会費は5000円(学生・院生3000円)の予定です。