2015年度 日本近代文学会関西支部春季大会ご案内

※発表要旨>>こちら

日時: 2015年6月6日(土) 13時00分から18時00分
会場: 武庫川女子大学中央キャンパス 文学部2号館・L2-11教室

内容:     
・開会の辞   

武庫川女子大学 文学部長 玉井 暲

自由発表
・徳富蘆花「灰燼」と<西郷隆盛>

平石 岳(同志社大学大学院生)

・『草枕』
   ―オフェリヤの「合掌」を中心に―

原田 のぞみ(近畿大学研修員)

・「文章世界」の小説指導
   ―田山花袋編『二十二篇』に見るその傾向―

山本 歩(関西学院大学大学院生)

・太宰治「きりぎりす」の一考察
   ―「背骨にしま」われた「私」の葛藤―

山田 佳奈(武庫川女子大学大学院生)

・中島敦《南島譚》考
   ―<病>と<南洋>―

杉岡 歩美(花園大学非常勤講師)

・閉会の辞   

日本近代文学会関西支部長 花園大学 浅子 逸男

・総会
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※総会終了後、武庫川女子大学公江記念講堂地下食堂「アゼリア」にて懇親会を開催します。
  会費は五〇〇〇円(学生・院生三〇〇〇円)の予定です。

2015年度 関西支部春季大会 研究発表募集のお知らせ

日本近代文学関西支部では、2015年度春季大会での自由研究発表を募集いたします。
支部会委員の皆さまの積極的な応募をお待ち申し上げます。
日時会場  2015年6月6日(土)/於 武庫川女子大学
募集人数  3~4名
応募締切  2015年2月20日(金)必着
応募要領  発表題目及び600字程度の要旨を封書でお送りください。
        必ず連絡先(電話番号・メールアドレス等)も明記してください。
○発表時間は30分程度です。
○採否については、運営委員会で決定次第お知らせいたします。
発表に関してご不明の点は事務局までおたずねください。
送付先
       〒631-8502 
       奈良市山陵町1500 
       奈良大学 木田隆文研究室内 
       日本近代文学会関西支部事務局

2014年度 日本近代文学会関西支部秋季大会ご案内

※本企画の趣旨>> こちら
※本企画の発表要旨>> こちら
日時: 2014年11月1日(土) 13時00分から18時15分
会場: 京都教育大学F棟 大講義室2
       → 交通アクセス & キャンパスマップ>> こちら
内容:      
・開会の辞   

京都教育大学 学長 位藤紀美子

自由発表
・有島武郎「一房の葡萄」の言説空間
 ―大正十一年という磁場―

小橋玲治(甲南高等学校非常勤)

・『半七捕物帳』の異動について

浅子逸男(花園大学)

連続企画(第四回)
シンポジウム「文学研究における〈作家/作者〉とは何か」
小特集「教室の中の〈作家/作者〉

趣旨説明・司会/山田哲久・和田崇

・「古典」との橋渡し役としての「近代以降の代表的な」「作家」
―平成20年版中学校学習指導要領を視点として―

宮薗美佳(常磐会学園大学)

        
・話者の判断の表れた言葉に着目して「高瀬舟」(森鴎外)を読む

寺田守(京都教育大学)

・村上春樹作品の教材化と、「とんがり焼きの盛衰」をめぐって

清水良典(愛知淑徳大学)

・閉会の辞   

日本近代文学会関西支部長 支部長 大橋 毅彦

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※総会終了後、京都教育大学食堂にて懇親会を開催します。
会費は五〇〇〇円(学生・院生三〇〇〇円)の予定です。

2014年度 日本近代文学会関西支部秋季大会発表要旨

自由発表
有島武郎「一房の葡萄」の言説空間
   ―大正十一年という磁場―

小橋 玲治

 有島武郎「一房の葡萄」では女性教師が主要人物として登場する。山田昭夫が「まったく非の打ちどころがない」と述べるなど、この教師には従来高い評価がなされてきた。だが、そもそも「女性教師」という存在を肯定的に描くということ自体稀なことであった。結婚できない存在にすぎないという否定的なイメージが女性教師を描くに際し横行していた中で、有島が「一房の葡萄」で提示した女性教師表象は、それが外国人であるということを鑑みたとしても、特異なものである。先行研究では、女性教師の「愛の力」と「白い美しい手」は自明視されてきたが、そのように描かれること自体が当時にあっては新しいことだったのである。
 ほぼ同時期に女性教師への社会からの目を一変させる事件が現実に起こる。「一房の葡萄」は『赤い鳥』第五巻第二號(大正九年八月)に掲載され、書籍として刊行されたのはその二年後、大正十一年六月であった。翌月、小野さつきという一人の女性教師の死が世間を賑わせた。彼女は川で溺れた生徒らを助けようとして亡くなったのだが、その死はその後一種の「メディア・イベント」に発展した。と同時に、彼女の文字通りの決死の行動は、教師の鑑として称賛されたのである。本発表では、奇しくも大正十一年という同じ年に現れた二つの「理想的な」女性教師像を取り上げる。女性教師イメージが現実に転換していく中で、「一房の葡萄」をその動きに先行する作品として捉え、女性教師を語る当時の言説空間において本作が果たした役割について考察したい。
『半七捕物帳』の異同について

浅子 逸男

 大正六年から発表された「半七捕物帳」は、昭和十二年まで断続的に雑誌掲載された作品である。最初の七篇が発表されると単行本として刊行されたが、すぐに人気が出たわけではない。翌年「半七捕物帳後篇」六篇が連載されたが、後篇は単行本にはならなかった。
 第一話として発表された「お文の魂」は、『文垂倶楽部』(大正六年一月)に発表されたあと、単行本『半七捕物帳』(大正六年七月)では本文の異同はなし、新作社版(大正十二~十四年)でわずかな改変を経て、春陽堂版(昭和四年一月)でほぼ現行の本文になった。
 事件は元治元年(一八六四年) のことである。半七の年齢が、初出では「三十前後の痩ぎすの男」として登場したのに、新作社版では「三十二三の痩ぎすの男」となるが、春陽堂版では、「四十二三の痩ぎすの男」と十歳ほど年齢が変えられる。それにしたがうと、初
出および新作社版では半七は天保五年頃(一八三四年前後)の生まれであるが、春陽堂版では文政五年頃(一八二二年前後)の生まれということになる。それにともなって、語り手の私と出会う時期も、初出と新作社版では「私が半七に初めて逢つたのは、それから廿年の後で、恰も日露戦争が終りを告げた頃」(明治三十八年)であったのが、春陽堂版では「私が半七に初めて逢つたのは、それから十年の後で、恰も日清戦争が終りを告げた頃」(明治二十八年)と変更されている。私と出会ったときの半七の年齢を変えずに、出会った時期をさかのぽらせたわけである。
 半七の生年は新作社版までは天保年間で、昭和四年の春陽堂版で文政年間に直され、以降執筆された「半七捕物帳」ではそれにあわされることになった。
 さて、半七の人気が出たのは、新作社の五冊本が出た頃あたりで、そして六代目菊五郎が芝居にかけてからのことでもあった。
 今回の発表は、本文異同についてだが、菊五廊の芝居との関連にも言及していきたいと考えている。
連続企画 文学研究における〈作家/作者〉とは何か
    ―第四回―  小特集「教室の中の〈作家/作者〉」

「古典」との橋渡し役としての「近代以降の代表的な」「作家」
  ―平成20年版中学校学習指導要領を視点として―

宮薗 美佳

 「教室における(作家/作者)」を考察するにあたり、教科書作成におけるプレテキストでもあり、各校種、各学年の学習内容を定めている学習指導要領での(作家/作者)の捉え方を検討する必要がある。現行の国語科の学習指導要領で「作家」に言及している箇所は、「中学校学習指導要領 第2章 第1節 国語」の「第4章 指導計画の作成と内容の取扱い 3 取り上げる教材についての親点」の「(4)我が国の言語文化に親しむことができるよう, 近代以降の代表的な作家の作品を, いずれかの学年で取り上げること。」である。文部科学省『中学校学習指導要領解説 国語編』(平成20年9月 東洋館出版社)では、「各学年の〔伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項〕(1)アの指導では, 古典を教材として取り扱う。これにつながる, 近代以降の代表的な作家の作品に触れることで, 我が一国の言語文化について一層理解し, これを継承・発展させる態度を育成することをねらいとしている。」と解説される。ここには、近代以前のいわゆる「古典」との橋渡しの役目を、「作家」の名によって特別に担わせることで、「近代以降の代表的な」「作家」を、現代の言語とは分断された言語を用いて創作する、「古典」の「作者」に再配置する戦略がある。以上の観点から中学校国語教科書等を、学習指導要領の運用形態として検討することにより、現行学習指導要領下の国語教育における<作家/作者>像を考察する。
話者の判断の表れた言葉に着目して「高瀬舟」(森鴎外)を読む

寺田 守

 文学作品を通して読者が作家と出会う素朴な形として、同じ作家の複数の作品を続けて読むことが挙げられるだろう。いくつかの作品に繰り返し描かれる言葉、考え方、人物像、問題、舞台などの共通点に気づく時、私たちは作家の個性や好み、問題意識といったものを感じ取ることができる。例えば森鴎外の「高瀬舟」を読む私たちは、近世を舞台とした物語には馴染まない「オオトリテエ」という言葉に違和感を覚えるが、他の作品を続けて読んでみると、頻出するドイツ語や英語、漢語などの単語語から、描こうとする事象にしっくりと当てはまる適切な言葉を求めようとする鴎外の個性を感じることになる。
 教室でこのような素朴な形の作家との出会いは、カリキュラム上必ずしも準備されているとはいえない。一つの作品を読むことで作家と出会うという少し不自然な形をとることになる。例えば説話文学を読むときには「上人の感涙いたづらになりにけり」といった文の「いたづらに」といった評価語に着目することができる。
 近現代の文学は「うれしい」 ことを「うれしい」という言葉を用いずに描く表現が優れていると考えられ、評価語に着目する観点だけでは十分とはいえない。そこで会話分析の手法を用いて、特にモダリティや話者の判断を表す言葉に着目することで、語り手や登場人物の考え方に出会う読み方を探っていきたい。
村上春樹作品の教材化と、「とんがり焼の盛衰」をめぐつて

清水 良典

 筆者は筑摩書房の高等学校国語教科書編集委員を務めている。担当した教科書に、一冊本の「国語総合」があるのだが、そこに小説教材として村上春樹の短編「とんがり焼の盛衰」が収録されている。これを話題にすることで、本企画への問題提起の足がかりとしたい。
 村上春樹は教科書に多く採択されている作家である。「沈黙」「鏡」「青が消える」「七番目の男」「レキシントンの幽霊」などが採られ、中学校の教科書でも「バースデイ・ガール」が採択されている。これらの作品の共通点を挙げると、ミステリアスな物語であり、かつその原因やー異相が明かされていない、という点である。その結果、解釈が具体から抽象まで多様に開かれている。そこに教材としての扱いやすさと難しさがある。つまり自由に議論しあえる半面、正確な読みから導かれる妥当な解釈を、教師が提供できないのである。
 それに対して「とんがり焼の盛衰」は、集散的なファンタジーの背後に、作者の自己解説によれば、既成文士に対する皮内な観察が織り込まれている作品である。それに従うなら、芥川賞レースに巻き込まれたあげく嫌な思いをした村上が、今後は自分の好きなように書いていく決心をするに至るプロセスが読み取れる。しかし、そのような<作者>性と無縁に読むことも、もちろん可能である。物語自体のオープンな抽象性と、背景に作者の経歴につながる具体的モチーフの双面性を持つこの作品は、果たして教室でどう読まれるべきだろうか。文学と教材のあいだに横たわる諸問題を、それを入口に議論していきたい。

2014年度 関西支部秋季大会小特集企画趣旨

【小特集企画】教室の中の〈作家/作者〉

趣旨
 関西支部では二〇一三年より連続企画として、「文学研究における<作家/作者>とは何か」について議論を重ねてきたが、このテーマと隣接する問題として最後に考えたいのは、教室のなかで<作家/作者>がどのように扱われているかである。
 テクスト論以降の文学研究においては、<作家/作者> の問い直しがされて久しい。では、現在の中・高の国語の授業では、一体どのように<作家/作者>が扱われているのだろう。たとえば、文学教材を<作家/作者>が発信したメッセージと捉え、「作者の言いたいこと」を正確に読み取るという学習課題は、現在も設定されているのだろうか。一方、「言語活動の充実」が『学習指導要領』にうたわれる中で、文学教材をオープン・エンドな形で話し合う議論の材料=場と意味づけた授業もあるだろう。この教室には、もはや<作家/作者>は存在しないのではないかとの思いも浮かぶ。
 また、本企画では、文学研究と国語教育の差異や連続性にも目を向けたい。そこでは、解釈の多様性という文学研究が目指してきた方法論と、国語教育における「正解到達主義批判」や「読者論」の影響を視野に収めた議論が必要となるだろう。
 教室における<作家/作者>の扱われ方とそれを取り囲むイデオロギーの問題は、<作家/作者>の神話性について考える上でも重要な示唆を与えてくれるはずである。そうした問題も踏まえて、<作家/作者>をめぐって議論してきた本連続企画をまとめてみたい。

 近年、文学研究の場と中・高の教育現場との距離が遠くなったように感じられる。国語教育に文学教材が用いられている以上、両者は隣接しているはずで、文学研究者は教科書編集や指導書の執筆という形で協力を続けている。だが、両者の対話は現在どれくらいなされているのだろう。関西支部では本特集を発端として、大学の研究と中・高の教育との差異を再確認しつつ、両者が応答し合うことにより、関係の再構築をめざしていきたい。

2014年度 関西支部秋季大会 研究発表募集のお知らせ

日本近代文学関西支部では、2014年度秋季大会での自由研究発表を募集いたします。支部会委員の皆様の積極的な応募をお待ち申し上げます。
日時会場  2014年11月1日(土)/於 京都教育大学
募集人数  2~3名
応募締切  2014年7月18日(金)必着

応募要領  発表題目及び600字程度の要旨を封書でお送りください。必ず連絡先(電話番号、メールアドレス等)を明記してください。
その他   発表時間は30分程度です。採否については、運営委員会で決定次第お知らせいたします。発表に関してご不明の点は事務局までおたずねください。
送付及び問い合わせ先
   
       〒631-8502 
       奈良市山陵町1500 
       奈良大学 木田隆文研究室内 
       日本近代文学会関西支部事務局

2014年度 日本近代文学会関西支部春季大会ご案内

※本企画の趣旨>>こちら
※本企画の発表要旨>>こちら

日時: 2014年6月7日(土) 13時00分から18時15分
会場: 奈良大学 C棟105教室

内容:     
・開会の辞   

奈良大学 文学部長 真田 信治

自由発表
・空転する「デカデンツ」
 ―昭和一〇-一一年「デカダン論争」の問題圏―

福岡 弘彬(同志社大学大学院生)

・初期日本SFにおける「核」の表象
 ―一九六〇年代半ば~七〇年代初頭の
                 ショート・ショート作品を中心に―

森下 達(京都大学非常勤)

連続企画(第三回) 「文学研究における〈作家/作者〉とは何か」

司会:小川 直美/信時 哲郎

・TVアニメにおける監督の位置
 ―『まどか☆マギカ』における演出スタイルから―

禧美 智章(立命館大学非常勤)

・「記号としての作者」は死につつあるか?
 ―「実話怪談」系文庫の変遷とホラー作家―

奈良崎 英穂(プール学院大学非常勤)

        
・「分身」としての主人公
 ―さくらももこ作品における〈笑い〉の変容―

山田 夏樹(駒澤大学ほか非常勤)

・閉会の辞   

日本近代文学会関西支部長 関西学院大学  大橋 毅彦

・総会
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※総会終了後、奈良大学食堂にて懇親会を開催します。会費は五〇〇〇円(学生・院生三〇〇〇円)の予定です。

2014年度 日本近代文学会関西支部春季大会発表要旨

発表要旨 自由発表
空転する「デカデンツ」
 ─昭和一〇─一一年「デカダン論争」の問題圏─

福岡 弘彬(同志社大学大学院生)

 昭和一〇年一〇月、保田与重郎は「日本浪曼派」に「主題の積極性について(又は文学の曖昧さ)」を発表する。保田はこの晦渋な芸術論において、自分たちこそがポスト・マルクス主義を担う者であることを、「デカデンツ」の語を用いて表明した。この語を符牒とした一枚岩の「日本浪曼派」を偽装する保田であったが、しかし彼が「僕ら」と想定した共同体内部からも、その外部からも、「デカデンツ」は罅入れられ、壊体されてしまう。同時期文壇において〈デカダンス〉問題が喧しくなる中で、「デカデンツ」は現代の若者の虚無的・頽廃的傾向の問題へと転轍され、ほとんどついに理解されることはなかった。「ほゞ一年の間にデカダン文学といふことは、日本の現文壇人を総動員してあらぬ方に歪められて了つた」(保田与重郎「文芸時評」、「日本浪曼派」昭11・9)――。
 保田与重郎自身「デカダン論争」と呼ぶ右のような事態を復元することが、本発表の狙いである。「主題の積極性について(又は文学の曖昧さ)」を焦点に、保田が「デカデンツ」に込めた意味と戦略を明らかにした上で、「論争」――とは到底呼べぬものであるが――の推移を整理することで、その語の概念化・伝達の失敗を辿る。文壇を空転する「デカデンツ」の軌跡を追いながら、しかし確かにそこに生じていた〈デカダンス〉の新たな可能性を考察したい。
初期日本SFにおける「核」の表象
 ─一九六〇年代半ば~七〇年代初頭の
                  ショート・ショート作品を中心に─

森下 達(京都大学非常勤)

 本発表では、一九六〇年代半ばから七〇年代にかけて、ジャンル的な成立を果たした後の日本SFに対して、ショート・ショートを中心に検討を加える。問題になるのは、以下の二点である。ひとつ目は、ショート・ショート作品において、核戦争による破滅や放射線被曝による奇形化などのモチーフが、わかりやすい「オチ」としてしばしば用いられたこと。ふたつ目は、同時代における原子力発電事業の拡大を背景に、電力会社のPR誌や、日本原子力文化振興財団の発行する『原子力文化』に発表された諸作品において特に、完全な電化がなされた未来社会が作品の舞台として描かれたことである。結果、被爆/被曝に対する恐怖感が、現実の国際情勢から切り離され、切実さを失っていった一方で、一九四〇~五〇年代に夢想されていた原子力による理想社会というヴィジョンは、単なる未来の日常として、政治問題化されない形でより広く受け入れられるようになっていった。
 星新一に代表されるSF作家は、ショート・ショートにおいて顕著だが、あざやかな視点の転換による価値の相対化をその中心的な方法論としてきた。初期の日本SFにおける「核」表象を論じることは、SF的な相対化の方法論が、社会的なテーマにいかに関わり得るのか、あるいは、関わることができないのかを考える上での手がかりを与えてくれるだろう。エッセイなども俎上に載せることで、SF作家たちが拠って立つSF観、科学観を問い直し、問題に答えたい。
連続企画 文学研究における〈作家/作者〉とは何か
    ―第三回―  小特集「サブカルチャーと〈作家/作者〉」

 
TVアニメにおける監督の位置
 ―『まどか☆マギカ』における演出スタイルから―

禧美 智章(立命館大学非常勤)

 多数のスタッフの手によって制作されるアニメーションにおいて、〈作家/作者〉あるいは「作家性」の問題はどのように捉えられるべきだろうか。例えば、作品全体を統括する役割を担うのが監督であるが、細分化された制作過程のなかで監督が各制作パートのどこまで関わっているのかが不明瞭であるという問題が存在する。特に、限られた予算と時間のなかで毎週三〇分の作品を制作しなければならないTVアニメの場合、ストーリーに関しては、監督の他に何名もの脚本家やストーリーを統括するシリーズ構成が加わる制作体制、演出に関しても、監督の指示のもと、各話ごとに異なる演出家が担当する制作体制が一般的となっている。
 本発表では、主に二〇一一年に放映された、虚淵玄脚本・新房昭之監督のアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』を取り上げ、その演出のあり方に着目する。本作は、脚本家の虚淵氏が全てのシナリオを担当しているが、インタビュー等でシナリオがキャラクター等の設定に先行して執筆された上で、制作がなされたことが明らかにされている。発表では、同じシナリオを小説化、マンガ化したノベライズ版、コミック版との比較を補助線に、シナリオと映像の比較分析を行う。虚淵氏による脚本を監督である新房氏がいかに映像化しているのか、そのイメージの展開を考察することを通して、TVアニメにおける監督の位置を明らかにし、TVアニメにおける〈作家/作者〉の問題を検討する。
「記号としての作者」は死につつあるか?
 ─「実話怪談」系文庫の変遷とホラー作家─

奈良崎 秀穂(プール学院大学非常勤)

 ここで用いている「記号としての作者」というのは、例えばこの作家の新作が出たらストーリーもなにも知らなくても無条件に買う、といった意味合 いで作用している換喩的な「記号」である。現在一部で支持を得る「実話怪談」系文庫というジャンルは、こうした「記号としての作者」が介在しづら いジャンルなのではないか?
 「実話怪談」系文庫は九〇年代半ば以降、急速に発行点数を伸ばし、一ジャンルを築いた感があるが、それは古い記号性に頼った「中岡俊哉」的なものを否定することによってもたらされたのではなかったか。九三年以降「実話怪談」系文庫は『「超」怖い話』シリーズと稲川淳二を軸に回り始めた。いわば、「中岡俊哉」という記号によって喚起される古き怪談は見捨てられ、無名の一般人=「記号性を持たない作者」という新たな記号による実話怪談が発見されたのである。
 角川ホラー文庫というレーベルは、「記号としての作者」を一方に置き、もう一方に新たに発掘した新人を配して、約二十年に渡りホラー小説界をリードし続けてきた。そこでは新たな「記号としての作者」を生み出しもしたが、また多数の新人を見捨ててもきた。それはおそらく新たなビジネススタイルだったのだろう。取り敢えず多数の新人を発掘するというスタイルは、その後「実話怪談」系文庫にも及び、そこでは作者という記号性が剥奪され、「無名性」が作者に代わる記号として作用する状況を生みだしている。
「分身」としての主人公
―さくらももこ作品における〈笑い〉の変容─

山田 夏樹(駒澤大学ほか非常勤)

 さくらももこ「ちびまる子ちゃん」(「りぼん」一九八六・八~九六・六。以後不定期掲載)は、一九七四年の静岡県清水市を舞台とする「エッセイ・コミック」として描かれていた。しかしその後、揺れはありながらも、徐々に作者「さくらももこ」と主人公「まる子」は解離し、ノスタルジーを喚起するものではなく、多くの登場人物が戯れる様相を描き出す側面の強い作品に変容していくこととなる。
 九〇年代初頭にブームとなった当時から、実際にはそのようなポストモダン性は指摘されてもいたのであるが、一方で、「まる子」が自身の「分身」「一部」になっていったことも作者によって主張されていく。つまり、登場人物として対象化していく過程と、自身と一体化するように認識していく過程が並行して行われる。そして、そうした一見相反する構図において、本作は単に「エッセイ・コミック」から離れるだけでなく、〈笑い〉の性質も大きく変容させることとなっていく。
 今回、そうした仕組みに注目することにより、作品内に登場する作者、または主人公の機能について改めて考察していきたい。少女マンガという表現形態や、ベストセラーとなった『もものかんづめ』(集英社、一九九一・三)から現在に至るまで描き続けられている一連のエッセイ、また同時代の〈笑い〉などとの関わりについても言及する。