このたび関西支部では、2011年11月に韓国ソウルで開催を予定しております韓国日本近代文学会との共催大会につきまして、下記の要領で発表者を公募することといたしました。
今回は、海外での発表ということに就き、支部予算から渡航に関わる費用の一部を補助します。この機会に、支部会員の皆様の積極的なご応募をお待ち申し上げます。
記
日 程 : 2011年11月5日(土)
会 場 : 韓國外國語大學校(予定)
使用言語 : 日本語
募集人数 : 1名(支部会員)
テ ー マ : 大会テーマは「太宰治」に決定しています。
太宰治に関わる内容の研究発表を募集します。
応募要領 : 発表題目および 600 字程度の要旨を封書でお
送りください。必ず連絡先(電話番号・メールアドレ
ス等)も明記してください。表書きに「日韓大会発
表希望」と朱書きしてください。
応募締切 : 2011年2月28日(月)
送り先および問い合わせ先 :
日本近代文学会関西支部事務局
>>こちらをご参照ください。
※韓国大会には、他に支部依頼の発表者1名、講演者1名、コメンテーター2名、支部長・委員長、その他会員が参加します。
採否につきましては2011年4月までにご連絡いたします。採用された方には後日、予稿集に掲載する原稿のご執筆をお願いすることとなります。また、大会内容を収録したブックレットが韓国で出版される予定です。予めご了承ください。
2010年度秋季大会のご案内
《日時》2010年11月6日(土) 午後1時~午後6時
《会場》奈良教育大学 講義1号棟1階102講義室
>>交通アクセス
>>キャンパスマップ
《内容》
挨 拶 奈良教育大学国語教育講座 前田 広幸
研究発表
プロキノ映画『山宣渡政労農葬』における映像編集に関する考察
――京都花やしき所蔵フィルムをてがかりに──
立命館大学大学院 雨宮 幸明
岡本かの子『東海道五十三次』──〈見ること〉の物語──
大阪府立大学大学院 久保 明恵
中島敦『夾竹桃の家の女』論
──ピエル・ロティ『ロティの結婚』との交錯──
同志社大学大学院 杉岡 歩美
〈殺人〉か〈侵略〉か──安部公房「変形の記録」論──
京都大学大学院 坂 堅太
高祖保の未刊詩集「独楽」定稿(新資料)をめぐって
呉工業高等専門学校 外村 彰
>>各発表要旨
閉会の辞 支部長 千里金蘭大学 明里 千章
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※どなたでもご来場いただけます(予約不要)。
※総会終了後、懇親会 奈良教育大学学生協食堂にて懇親会を開催します。会費は5000円(学生・院生4000円)の予定です。
2010年度春季大会のご案内
《日時》2010年6月12日(土) 午後1時~午後5時30分
《会場》甲南女子大学 管理棟 3階 031教室
>>交通アクセス
>>キャンパスマップ
《内容》
挨 拶 甲南女子大学文学部長 神野 富一
シンポジウム「村上春樹と小説の現在――記憶・拠点・レスポンシビリティ」
司会 飯田祐子 黒田大河
ポストモダン・ローカリティ――村上春樹の「開かれた焦点」とその主題化
京都工芸繊維大学大学院 高木 彬
村上春樹は世界文学か日本文学か――近代化過程と文学の表現をめぐって
立命館大学 中川 成美
「正しさ」の村上春樹論的転回
早稲田大学 石原 千秋
ピンポンと弑逆。――小説について考えるときに読者が考えること
文筆業 千野 帽子
>>企画趣旨
>>発表要旨
閉会の辞 支部長 千里金蘭大学 明里 千章
総 会
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※どなたでもご来場いただけます(予約不要)。
※総会終了後、懇親会 甲南女子大学第一学生会館3階「ドンク」にて懇親会を開催します。会費は5000円(学生・院生4000円)の予定です。
2010年度春季大会企画 発表要旨
ポストモダン・ローカリティ――村上春樹の「開かれた焦点」とその主題化
高木 彬(京都工芸繊維大学大学院)
世界的な「村上春樹現象」の根拠が文化的「無臭性」(四方田犬彦)にあるにせよ「固有性」(藤井省三)にあるにせよ、それを作者や小説における空間的問題として内側から捉え直してみるならば、ローカリティの解像度を「日本」から「神戸」へと上げることができる。ここで注意すべきは、村上春樹の故郷の「神戸」が、『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』の四部作において「僕」の故郷の「街」として虚構化された際に、固有の地名を失うことである。多くの論者は「街」を「神戸」と一義的に等号で結んでいるが、しかし「街」は、あくまで記憶の焦点として空間的に限定されながらも、同時に、その限定性を失った無名の空間でもあるのではないか。四部作で繰り返される「東京」からの「記憶探し」の道行きは、核心部分が空虚へと挿げ替えられることで戯画化され、焦点が逆説的に「どこでもない空間」として開かれている。
村上春樹は、阪神・淡路大震災の1995年以降、状況に対するデタッチメントからコミットメントへと創作スタイルが変化した、と言及し、後者を、個人の井戸を掘り進めた先の地下水脈的な越境、と喩えている。しかしここまでの議論に照らせば、こうした繋がりの形は、実は既に80年代の四部作が物語の空間構造として有していたことが分かる。90年代の『ねじまき鳥クロニクル』以降繰り返されているのはむしろ、その「開かれた焦点」の構造自体の自己言及的な主題化ではないか。歴史群のサンプリングは、そのために要請されたものである。本発表では、この断層を「焦点空間におけるコミットメント形式の変容」として捉え、作者による震災以降の「神戸」の主題化と考え合せながら、ポストモダン以降の現代における小説表現とローカリティについて新たな視座を提示したい。
村上春樹は世界文学か日本文学か―近代化過程と文学の表現をめぐって
中川 成美(立命館大学)
村上春樹の出現は、文学的事象としてだけではなく、社会的・文化的な現象となって現代文学の新たな導線を描いた。いわゆる「ハルキ現象」は80年代のサブ・カルチャーの諸場面と連動して、バブル経済と呼ばれた未曾有の大量消費社会に穿たれた空虚な喪失感を代弁する、もっとも代表的な言説となった。現在に至るまで彼の作品はベストセラーを記録し、世界中ですぐに翻訳されて大量の読者を獲得し続けている。彼を日本文学作家とするにはその流布はあまりに広範、かつ大量で世界文学作家という呼称を与えようとする批評家も多い。
しかし、日本の外で彼の作品がどのように読まれてきているかということには、いくぶんの留保と注意を払わなくてはならない。第一に翻訳の問題がある。日本語からの直接訳のほかに英語などからの重訳について、村上は「重訳ってわりに好き」(『翻訳夜話』)と語り、彼自身の指示で重訳がされた例もある。つまり、日本語テクストから英語テクスト、そしてその他の言語テクストに至るプロセスで、原典とすべきテクストを決定するのは難しい状況がある。第二にポストモダンの代表的な文学として受容される彼の作品が、各地域の近代化過程の問題と絡みあって、近代が紡いだ歴史の記憶を再現して、新たな後近代の塑型を提示する役割を担ってきたことについて、どのように考えるべきか。
決して春樹の良き読者と言えない日本人・文学・研究者である私がこのことを語るということ自体が既にある種の矛盾を抱えもっているのだが、錯綜するテクストを生産し続ける春樹文学を相対化し、再布置をはかることによって見えてくるものは何かを考えたい。
「正しさ」の村上春樹論的転回
石原 千秋(早稲田大学)
村上春樹文学でときおり見られる「正しさ」という表現は不思議な使われ方をしていた。それはたとえば「その日、僕は彼女を抱いた。それが正しかったことなのか、僕にはわからなかった」という具合に書き込まれているのである。これは恋愛を書く文学としては非常に特異な表現である。ふつうなら、恋愛で問題になるのは愛情の度合いであって、「正しさ」ではないからである。しかし、こうした例を典型として、村上春樹文学はある種の「正しさ」に向けて書かれていると考えられる。
そこで考えられることは、村上春樹文学が実は初期から恋愛を個人の問題ではなく、社会の問題として捉えていたということである。その「正しさ」の基準をどこに求めているのかを明らかにすることが、村上春樹文学を解く鍵の一つである。また、村上春樹文学は恋愛と社会的な事象とを絡めて書くことが多く、「正しさ」の基準を社会のどこかに求めていることはまちがいない。繰り返すが、その「正しさ」の基準について考えてみたい。
ピンポンと弑逆。──小説について考えるときに読者が考えること
千野 帽子(文筆業)
村上春樹の『1973年のピンボール』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『海辺のカフカ』『1Q84』(BOOK 1と2。要旨執筆時には3は未刊)の四篇は、出会わないふたりの語り手もしくは視点人物のそれぞれの行動を交互に報告するふたつの筋から成り立っています。柄の大きな長篇小説である後三者を、他の作家の同形式の例(レーモン・クノー『青い花』、アラン・ロブ=グリエ『弑逆者』を中心に、ジョルジュ・ペレック『Wあるいは子供の頃の思い出』、フォークナー『野生の棕櫚』、宮部みゆき『レベル7』など)と併置することによって、「物語のピンポン」形式について考えたいと考えています。
しかしこのように思い立った瞬間に、私たちは「文学について考えるとは、そもそもどういうことなのか」という問いに直面してしまいます。もし私が卒業論文準備中の学生なら、指導教員は私に「なぜこれらの作品をいっしょに読むの?」と尋ねることでしょう。
この話は個々の作家について考えるものではなく、「小説について考えるときに読者が考えること」について考えようという、ややメタなものです。話は学術的なものとならず、「学問」の外から「学問」の外延を撫でさすることになりますが、専門の日本文学研究者ならぬ一読者がこの場にお招きいただいたことの、それが意味だと考えています。どうぞご理解ください。
2010年度春季大会企画趣旨
■シンポジウム
村上春樹と小説の現在─記憶・拠点・レスポンシビリティ
■企画の趣旨
国民国家とともに成立した「小説」というジャンルは、20世紀的状況からポスト近代へと到る状況のなかで、その在りようを変化させてきた。ジャンルの固有性やメディアにおける配置、そして小説の可能性と不可能性は、現在どのように捉えることができるだろうか。本シンポジウムの目的は、村上春樹を対象に「小説の現在」を探ることにある。今日、村上春樹ほど「小説家」であること、「小説」を書くということの意味に意識的な作家はいない。最近の例でいえば、エルサレム賞の授賞式でのスピーチは、「小説家」としての立場から自らの政治性を表明したものであったし、発売後瞬く間にミリオンセラーとなった『1Q84』では「小説家」が登場人物となっており、小説を「書く」行為そのものの持つ意味が扱われているといえる。
具体的な問題の設定については個々のパネリストにゆだねることとしたいが、現在、村上春樹について考えるための切り口として、たとえば次のものが想定できるだろう。
ひとつは「記憶」をめぐる問題である。村上春樹は、よく知られるように1995年あたりから状況に対するデタッチメント(かかわりのなさ)からコミットメント(かかわり)へと方向性を変え、社会的事象を積極的に作品に採り入れるようになった。転回の具体的契機となった出来事の一つに、阪神・淡路大震災がある。関西出身の村上春樹にとって、「記憶」が集積した空間の崩壊は何をもたらしたのか。『ねじまき鳥クロニクル』以降の作品では、「記憶」と「歴史」の接合が探られている。小説は、それらとどのように重なりまたずれているのか。このような「記憶」と時間性に関わる問題系において、小説の在りようを探ってみることができるのではないだろうか。
また空間的な問題として、村上春樹の「拠点」について問うてみることもできるだろう。村上春樹は神戸出身であり、その土地の風景は初期の作品などに描き込まれているが、テクストはその土地のローカルな色を表そうとする指向はもっていない。脱色化された風景のもつ意味や効果は小説表現の問題としてどのように考えうるだろうか。より今日的な問題としては、日本出身の作家のなかで最も越境的に活躍している村上春樹が、グローバリズムに対してどのようなポジションをとっているのかという問いも浮かぶ。語られる「記憶」は、どこを「拠点」として繋ぎ合わされているのか。
そしてまた、村上春樹が応答責任を果たそうとしている対象はどのようにテクストに書き込まれているのかという問いについて考えてみることもできるのではないか。世界中に翻訳されている村上春樹の作品の読者は、「誰」なのか。それらの問いを、多様で複雑な情報の氾濫とつねに発生し続ける力学をどのように捉え、「小説」そのものの配置と政治性をどのように考えるかという問いへと広げることもできるはずだ。
以上のような視点をパネリストからの問題提起と考え合わせることで、一種の社会現象ともいいうるほどの広がりを持つと同時に「小説家」であることに特化された村上春樹の仕事について、会場全体で討議・再検討する。本シンポジウムを「小説の現在」を見つめる機会としたい。現在における文学の、あるいは文学研究の果たすべき役割が、その先に見えてくるのではないだろうか。
企画委員:飯田祐子、黒田大河、日高佳紀
2010年度秋季大会 発表者募集のお知らせ
2010年度の秋季大会は、11月6日(土)13時30分より、奈良教育大学にて開催される予定です。
研究発表では3名の自由発表を予定しております。発表を希望される会員の方は、2010年7月末日必着にて、封書でお申し出下さい(宛先は事務局ではありませんのでご注意ください)。
詳細につきましては、2010年度春季大会案内に同封の要項をご参照ください。
2009年度秋季大会のご案内
2009年度 日本近代文学会関西支部秋季大会 ご案内
《日時》 2009年11月7日(土) 午前11時~午後6時
11月8日(日) 午前10時~午後1時
※今回は二日間の開催です。
《会場》関西大学 千里山キャンパス 以文館4階 セミナースペース
〒 564‐8680 大阪府吹田市山手町3-3-35
電話 06(6368)1121(大代表)
※交通アクセスは→こちらをご覧ください。
※キャンパスマップは→こちらをご覧ください。
《内容》
【第1日目(11月7日)】
会場校挨拶 関西大学文学部長 山本 幾生
開会・歓迎の挨拶 関西支部長 浅野 洋
支部創設30周年記念・日韓共同開催特別企画
海を越えた文学(1)――日韓を軸として――
特集趣旨説明 立命館大学 木村 一信
明成皇后・表象試論――三好徹「閔妃殺害」を中心として――
佛教大学 三谷 憲正
(コメンテイター 金 容安)
安部公房の〈満州〉体験 威徳大学校 李 貞熙
朝鮮詠の俳域――朴魯植と村上杏史――
愛媛大学 中根 隆行
(コメンテイター 崔 在喆)
日本留学時代の金史良に関する小考
水原大学校 許 昊
講 演 どこにも根を張れない種がつけた蕾
小説家 玄 月
臨時総会
【第二日目(11月8日)――自由発表】
寺山修司「書を捨てよ町へ出よう」における「若者」
――「上京若年労働者」をめぐって――
立命館大学大学院 秋吉 大輔
井上靖「敦煌」論――方法と歴史認識について――
同志社大学大学院 山田 哲久
内野健児と植民地期朝鮮の日本詩壇
――一九二〇年代の文学様相の解明に向けて――
立命館大学 楠井 清文
謝辞 関西支部長 浅野 洋
閉会の辞 韓国日本近代文学会会長 許 昊
※懇親会 第1日目(7日)総会終了後、関西大学以文館1階・法文坂レストランにて開催します。会費は5000円(学生・院生4000円)の予定です。
※同封のはがきで、大会・懇親会のご出欠を10月20日(火)必着で(ご欠席の場合も)必ずお知らせください。
※運営委員は、7日午前10時までに関西大学尚文館4階405教室にご参集ください。
2009年度春季大会シンポジウム発表要旨
2009年度日本近代文学会関西支部春季大会におけるシンポジウム「文学研究における継承と断絶――関西支部草創期から見返す――」の「企画のことば」と発表要旨は以下の通りです。
(春季大会のご案内は→こちらをご覧下さい)
日本近代文学研究の転回点から(企画のことば)
浅野 洋(近畿大学)
唄は世につれ……ではないが、文学研究の方法にも〈時流〉があって何の不思議もない。とはいえ、最近の研究状況は、知ってか知らずか、現下の立脚点になった「近過去」の積み重ねにあまりにも冷淡すぎるように思える。最新の〈時流〉に乗り遅れまいとして前掛かりとなり、それ以前の方法や成果――たとえば昭和四十年代や五十年代の近過去――を無視あるいは没却しすぎる弊に陥っているのではなかろうか。換言すれば、今日の研究シーンの原点となった〈出発点〉、いうなればみずからの〈足元〉に対する注視を、あまりになおざりにしてはこなかっただろうか。
ひとくちにいえば、研究方法の更新とは常に〈継承と断絶〉の争闘の歴史である。文学研究の重要な柱のひとつがテクスト(作品)を包摂する広義での〈歴史性〉の発掘や意味づけにあるとしたら、我々の研究自体にもまた〈歴史性〉が刻印されているはずである。歴史を忘れた研究や方法は必ずや歴史に復讐される。
その意味で、今回のシンポジウムは、研究や方法の〈歴史〉の一端を見直そうという趣旨である。題して「文学研究における継承と断絶――関西支部草創期から見返す――」。我々の活動の足場である関西支部の〈歴史〉を想い起こし、そこから現在の研究状況に至る〈歴史性〉を見返そうというのである。
たとえば、三十年前の関西支部発足の創設メンバーである谷沢永一氏。谷沢氏は、近代文学研究が大衆化する呼び水ともなった〈作品論〉隆盛の時期、そのリード役であった三好行雄氏や越智治雄氏らに対して関西の地から鋭い「牙」を剥き、厳しい「紙の飛礫」を投じて「方法論論争」(昭51~53)なる大きな波紋を呼んだ。関西支部は、この論争の余燼がくすぶる中で創設されている。一方、北村透谷研究で出発し、芥川や独歩や漱石に関しても精力的な成果をあげつつ、明治の〈戦後〉を軸とする「文学史」を構築し、「〈夕暮れ〉の文学史」を紡いだ平岡敏夫氏。みずからを「文学史家」と位置づける平岡氏は、かつての「方法論論争」において谷沢氏と応酬を交わしつつも、関西支部創設二十周年の際にはその記念講演を快諾されたように、関西支部とは浅からぬ縁がある。ついでに言えば、前田愛氏がやがて『都市空間の中の文学』(昭57)にまとめる一連の仕事も、この「方法論論争」を横目に見てのことだった。関西支部の出発は、そうした近代文学研究の一つの転回点とともにあったのである。
このように「生きた歴史」の渦中にあった御二人の先達から、当時の思い出とともに研究や方法に関する話をジックリ聞きたいと思う。管理意識の色濃い〈東京方式〉とは異なり、講演ののちは、フランクな座談形式をもって対話を楽しみたい。進行役・質問役を兼ねる壇上の三名(太田登・田中励儀・浅野洋)に限らず、会場からの自由・活発な質問・意見を望みたい。制限のゆるやかな〈関西風ダラダラ学会〉を企画したゆえんである。
文学研究の発想
谷沢 永一(関西大学名誉教授)
文学研究は作品に内在する要素を組み立てて、作品が何を基礎として成立しているかの構成方法を、明確に浮かび上がらせるのを本来の目的とする。作品から研究者が読み取れるとする隠喩には、確実な証拠が必要であろう。金融に対する規制が求められているように、想像力には実証という限度が自覚されるべきである。
テクストという便利な用語が氾濫して以来、そのテクストなるものから何を読み取るかの作業を競うのは自由であろうが、それによって作品の構造が透視されるのでなければ、議論は糸の切れた凧みたいに中空を舞うのみであろう。
作品を分析するには論理的構築が必須であり、その進行に資する他の分野から得た暗示は有効であろうが、文学研究の分野から発生したのではない理論体系を直接に持ち込む安易な態度は自粛されるべきである。
独創は貴重であるが、現在までに蓄積されてきた研究史の成果を継承するのが本筋であろう。発表される研究論文によって当該作品の価値と位相がさだめられるべきなのが当然である。作品そのものが如何なる水準に位置するかが明瞭に示唆されるに至って、始めてその論文に客観的意義が生じる。但し、価値評価の偏りや歪みを是正して、新しくて確固とした評価の基準を生み出すところに、研究の醍醐味が存するのではあるまいか。
文学史研究における継承と断絶
――関西支部30周年のテーマに寄せて――
平岡敏夫(筑波大学名誉教授)
今回の発表は次のような構成で行う予定である。
1 関西支部20周年――『〈夕暮れ〉の文学史』より
一九九九年(平成11)十一月六日、関西支部20周年の会が関西大学で開催された折、「〈夕暮れ〉と日本近代文学――谷崎潤一郎『蘆刈』を中心として――」と題して講演を行ったが、その際、田辺聖子の作品における〈夕暮れ〉東西比較論、『枕草子』、後鳥羽院、荷風『すみだ川』等の〈夕暮れ〉の継承と挑戦があった旨を指摘、『〈夕暮れ〉の文学史』刊行後のことにも及ぶ。
2 研究と研究史――『昭和文学史の残像Ⅱ』より
今回の支部30周年のテーマを受けとめて、現在の一例に及ぶ。
3 作品論と文学研究――『昭和文学史の残像Ⅱ』より
昭和40年代からの〈作品論〉の流行とされる現象に対し、併行して〈文学史〉があったことを指摘する。
4 『日露戦後文学の研究』について
ヤウス『挑発としての文学史』にも関わる共時態的な文学史研究と〈戦後〉の問題。
5 『ある文学史家の戦中と戦後』
勝本清一郎・三好行雄・前田愛氏を中心に。
6 佐幕派の文学史
〈佐幕派〉の視点で明治文学史を見直す。
7 『明治文学史』研究
既出の「明治文学史」の継承・検討の課題。